『鳥』について

 「“普通の力”を解き放て!」第二回を聴講。
 アルフレッド・ヒッチコック『鳥』を題材に、前回同様、廣瀬氏が語る。


 あまりよく覚えていないが、断片的にメモをしておく。


 『鳥』では、リーダーとしての鳥は現れない。ヒッチコックが語るところでは、最終的にボツにしたが、リーダーとしての鳥Xを思わせるシーンを撮ったのだそうだ。鳥X曰く、「万国の鳥たちよ、団結せよ!失うものは羽根しかない!」。実はこのアジテーションは、マルクスの『共産党宣言』の最終部をもじったものだ。ここでは、鳥たちは労働者に、鳥Xは革命の指導者になぞらえられている。鳥の、人間に対する革命である。


 『鳥』では、その恐怖が、視覚と聴覚の双方において、360°展開される。
 たとえば、主人公の女性が鳥の大群に襲われて、電話ボックスに逃げ込むシーンがある。電話ボックスは、周知のとおり、360°が透明である。彼女は、ここにおいて、360°全面に展開するスクリーンで映画を見る観客の如く、鳥たちを眺めることになる。
 また、終盤、鳥から逃れるため、家に立てこもった主人公たちは、外部に鳥たちの声を聞く。サラウンドシステムのように遍在する鳥たちの声。


 『鳥』では、普通の鳥しか現れない。スズメや烏といった普通の鳥ばかり、であるにも拘らず、それらは恐ろしい存在である。ここには、ヒッチコックによる搾取があるのではないか。
 たとえば、あんことパンがあるとする。これらをアンパンにするとき、そこには、あんこでもパンでもない“過剰な何か”が生じているのではないか。あるいは、青と黄があるときに、それらが混じり合って緑になる。青と黄が補色として単に引き立てあうのではなく、緑になる。そのような明らかな質の変性が考えられる。
 『鳥』においては、鳥たちが意識した以上の、過剰な、質の違う恐ろしさが生じている。ヒッチコックは、鳥たちの気づかぬうちにこれを掬い取り、彼の利益としたのではないか。
 それは資本主義で起こっていることに似ている。


 云々。


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