キッチュ

 夜、名古屋へ行く。青田君たちと焼き鳥を食べる。
 青田君は、最近、一周してベタなものがよいと思うようになったのだそうだ。たとえば、家族との温泉旅行や、よくあるテレビドラマの演出や。
 その気分には覚えがある。それは、かつて僕と友人が、キッチュ理論と称して、話していたことに近しい。


 たとえば、木村拓哉の評価を考える。最も初心に考えると、彼は、ハンサムで、歌って踊れる格好よい人だ。(この評価は『ロング・バケーション』に至って国民的合意を得たと思う。)しかし、翻って、そのアイドル性や、奇妙で過剰な自意識のことを思うと、彼はあまり格好よいとは言えなくなる。痛々しくすらある。しかし更に考えを進めると、その奇妙で過剰な自己演出を“意識的に”繰り出しているとすると、そのあり方は寧ろ高度に戦略的にも見え、賞賛の対象になり得る。しかしもう一度見直すと…。
 このように評価のグルグルと回転する様を、僕たちは当時の八十年代リバイバルに引っ掛けて“キッチュ”と呼んでいたのだ。


 キッチュ理論では、評価が円の上を際限なく回転することも起こり得る、と考える。このとき、無限に後退する相対主義が現れる。それはあまり愉快なことではない。常にシニカルな逃げ口上でしか物事を語れなくなる。我々の、特に僕の興味は、無限の回転をどのようにして食い止めるかということであった。そのために僕は次のようなことを考えていた。
 一。無限の回転は、サイン波として描き直せる。サイン波はそれ自体は単調で無限の波でしかないが、シンセサイザーがそうであるように、サイン波を合成すれば、豊穣な音楽が生まれるのではないか。
 一。般若心経の言うところの“色即是空、空即是色”もキッチュである。しかし、般若心経では、それは永遠の回転としてではなく、往還運動にとどまっている。であるとすれば、その仕組みはどのようなものか。
 …


 問題がどのように解決されたか、それはここでは措くとして、僕は青田君もやはり同じ問題に出会う(あるいは出会った)のではないかと考えた。その時、彼はどうする(した)のだろう。


 ちなみに焼き鳥屋では“ちょうちん”という珍しい串に出会った。小さな卵が、ちょうちんのように串の先にぶら下がっているという代物だ。噛むと中から熱い黄身が零れ落ちる。もちろん僕は口中を火傷した。