お早よう

 「“普通の力”を解き放て!」第四回を聴講。
 小津安二郎『お早よう』を題材に、廣瀬氏が語る。今回が最終回。


 前回までの話を、簡単にまとめると、次のようになる。
 ヒッチコックの『鳥』では、かごから抜け出したはずの鳥たちが、世界の網の目(360°のスクリーン)に捕われて、意識せぬままに使役されている。現実の世界でもこれと同じことが起こってきた。


 で、問題は、このような状況から抜け出すにはどうすればよいか、ということであった。
 ここで、廣瀬は、『お早よう』における“音”の在り様を問題にする。『お早よう』では、物語の中の音が、そのまま、楽器の音になり、音楽になり、どこにも着地しないまま浮遊している。それは最早、ただの“音”でしかなく、それ以外ではなくなっている。そこに鍵があるのではないか。彼は、そのように指摘する。
 廣瀬の指摘は、確かに示唆に富むが、リアルな行動とはまだ乖離していると思う。『鳥』を巡る議論で見せた、歴史へのマッピングの視点、卓抜なアナロジーが、そこにはない。それはまだ、仄かな期待でしかない。


 浅田彰が、かつて“逃走”と言い、甚だしい誤解を受けたときのことを思い出す。浅田は後に「ほかならぬこの現実がヴァーチュアリティ(潜在性)においていかに多層的で豊かであるかを発見することが重要なんだ…本当はこの現実しかない、言い換えればメタロジックなんてものはない」(「諸君!」一九九五年八月号)と言い直すことになるが、このことは、まだ我々の問題であり続けている。
 

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