GOLD BLACK WHITE

 椿昇「GOLD BLACK WHITE」展を観る。


 「GOLD…」展では、会場内にはほとんど解説の類が配されていない。おそらく、作品を観に来た多くの方は、それだけでは、作家の意図を読み取れないだろうと思う。銅塊の上の抽象的な模様が、実は世界中の鉱山を写したものであること(だよね?)。鉱山が人類の巨大な欲望の表象であること。鉱山労働者の肖像と、十二使徒とのアナロジー。それらは、作品の表面からは、容易には読み取れない。


 美術を観るときには、視覚体験だけでは、作品のすべての意図を読み取れないことがある。そのため、何らかの言説、テキストが作品に添えられ、視覚体験を補強することがある。しかし、このような視覚体験に伴うエクスキューズは、「秘すれば花」「雄弁は銀」的な価値観の下では、無粋にも感じられる。硬派な教師のように、そんなことは自分で考えろ、と言い放つことにも、それなりの魅力があろう。
 美術は、ときどきそう信じられているように、感性だけで判じるものではない。カントが言うように、美について、理性は大きな役割を果たす。あるいは、島袋道浩がユーモラスに示すように、判らなさをそのまま受け入れることも必要な場合がある(その意味において、美術は子どものものではない)。
 美術は、きわめてハードコアに非民主的であり、その点に意義があるとも言える。
 このことは、常に公立の美術館を危険に晒し、文化行政を矮小化し、また国際展への非難を生む温床となる。


 椿は、観客、美術館、メディアに対して安易な対応を許さない。しかし、本展が“欲望と、そこからの遠近法”を中心的なテーマに据える限り、彼はそれ以上に、自分自身に対して厳しい態度をとり続けねばならない。これは大変に挑発的で、危険な姿勢である。ふと、60年代安保の頃のハードな心性を思わせる。彼はその意味で、ポスト戦争的である。


※ 椿は能弁な作家である。「GOLD…」展では、毎週誰かを招き、「ラディカル・ダイアローグ」と称して対談を行う。彼らのダイアローグは、作品の一部であろうから、厳密には作品は大いに“解説”されている。