革命の慎みについて

 レクチャー「革命の慎みについて」を聴く。
 講師は廣瀬純


 話の概要は以下のとおり。
 「一九三七年に二十八才の若さで戦病死した映画作家山中貞雄が、今年、生誕百周年を迎える。二十二才からの六年間、全二十六本の監督作品において、山中は何をしたのか。映画に“慎ましさ”というその本性を取り戻させようとしたのだ。少しでも油断すればすぐにでも“厚かましさ”の方へと引き寄せられてしまいがちな映画を、あくまでもその偉大なる“慎ましさ”のもとに引き止まらせ続けようとしたのだ。そして山中は次のことを直観していた。すなわち、革命は慎み深き振舞いであり、慎みはつねに革命的である、と。
 創造行為を始動させる問いは、いかにして厚かましく目立つかということにはない。我々は常に既に厚かましく、破廉恥な存在なのだ。創造とは、単なる“普通のもの”たちの慎ましき囁きのなかに、己の声をそれとしては同定不可能となるに至るまで紛れ込ませることにある。山中が映画を撮った一九三〇年代も、GRLが光のグラフィティやタグを展開する今日も、世界が“厚かましさ”に覆い尽くされているという点において何ら変わりはない。どちらも“近代”という同じ時代に生きているのだ。だからこそおそらく両者は、七十年の隔たりにもかかわらず、どちらも光という素材に固有の圧倒的な軽やかさのうちに慎み深き革命の条件を見出すことになるのだろう。」


 廣瀬さんの話は、何度も聞いているが、いつも絶えず新鮮な視点を提供する。山中の映画に登場する人物たちに顔がないこと、猫の置物も、ある作品で焦点となる壷も、いずれも正面性を欠いている、という指摘は、少なくとも僕には独創的に聞こえる。


 彼の高揚感と身振りを伴った語り口は、極めて特異である。スローモーションで、あるいは高速で再生すれば、ダンスを踊っているように見えるかも知れない。グルービー。