展覧会ドラフト

 京都芸術センター「展覧会ドラフト2011公開プレゼンテーション」へ行く。


 http://www.kac.or.jp/bi/341


 同センターでは、これまでも、展覧会の公募を行ってきた。平田オリザ河瀬直美ら、必ずしも美術プロパーではない者も審査員に迎え、領域横断性を意識してきたという。
 今回は、“展覧会に求められているものは何か”という点に焦点を絞り、新たに開始するもの。従来の公募展も継続し、1年毎に開催する予定とのことだ。今回の審査員は、東京都現代美術館長谷川祐子と、京都工芸繊維大学平芳幸浩。採用された案は来年2月、センターで実際に開催される。
 センター運営委員の森口まどかによると、応募は全国から100件に上ったという。両審査員による書類審査を経て、5組がプレゼンテーションを行った。


 最初に、長谷川から、“展覧会とは何か”ということについて短いコメント。
 曰く、展覧会について重要なことは二つ。
 一。人は忘れる。展覧会は、作品の文化的価値を掘り起こし、呼び覚まし、知らしめる。同じ作品でも、時代ごとに繰り返し取り上げることで、文化は継承される。
 一。人は自分の文脈外のものは理解できないし、往々にして拒絶する。展覧会では、新しい情報を翻訳して、アクセスポイントを設けることが必要。


 プレゼンテーターは、上西エリカ、八巻真哉、村山悟郎、和出伸一、越田博文の五名。


 上西は、日系ブラジル人。2004年、パラナ州芸術大学卒業。2009年、日本大学大学院卒業。
 京都の地形を下敷きに会場を構成し、鑑賞者により書かれた言葉をピースにし、ジグソーパズルを埋めていく要領でドローイングを完成させる、というプランを発表する。


 八巻は、京都精華大学情報メディアセンターのスタッフ。
 「Louder than Bomb」と題し、榎忠と西雅秋の作品を展示するプランを発表。二つの作品をつなぐものとして、京都大学教授・吉岡洋と、その父の、戦争体験についての対話(オーラル・ヒストリー)等を置くという。
 八巻は、発表の最初にヨーゼフ・ボイスの言葉を掲げ、芸術が社会に介入すること、当事者性を強く意識すること、を強調する。特に西の作品はフランスの水爆実験への怒りを露わにしたもので、“戦争”への言及を基調とした、全体にハードコアなプランと言えよう。


 村山は、東京藝術大学美術研究科絵画専攻在籍。
 「TRANS COMPLEX − 情報技術時代の絵画」と題し、自身と、彦坂敏昭の作品を展示するプランを発表。両者は、カオス理論、オートポイエーシス等の興味、知見を背景に作品を制作している。
 余談。審査員からの、(スペースを既に見たと思うが)展示の具体的なイメージはあるか、という問いに対し、村山は「絵画は、一定程度、自立している。それ自体で充足している」という趣旨のことを答える。今日の論点からは少し外れるが、このテーマもなかなか興味深い。


 和出伸一。1997年、京都芸術短期大学卒業。
 これまでに、信濃橋画廊TWS渋谷等で展示を行っている。残念ながら存じ上げなかったが、今回のプレゼンテーションの中では最も興味を惹かれた。
 展示タイトルは「召還術−art of recall」。
 一。94本の白木でできた円形の“檻”。その内側は、約1410枚の小さなカードで埋め尽くされている。カードには、指で描かれたドローイングが施されている。このドローイングは、京都芸術センターを中心とした半径10キロ内の地面に落ちていたものを絵の具に加工し、描かれたものである。
 一。檻の中心には丸テーブルが置かれている。テーブルの上には地図が置かれ、試料採取のプロファイルが書き込まれている。地図の中心の上には水の入ったコップが置かれている。
 一。会期前日の夜、オープニングレセプションを行う。このレセプションは、午前零時から、日出時間まで行われる。人間の参加者は作家のみ。レセプションの様子はカメラで記録され、会期中、公開される。クロージングレセプションも同様に行われるが、こちらは一切記録されない。通常のレセプションは行われない。
 和出は、今回のプランを“暴力的に流れる力のようなもの”を召還する儀式と位置づける。それは、嵐のように不穏で、我々の外の世界にある。道に打ち捨てられたものは、その外の世界へ零れ落ちたものだ。アートというよく分からぬものを扱う京都芸術センターは、京都の中心にあって、換気口のように、こちらからあちらへ吹き出す場なのではないか、と彼は言う。
 和出は過去に神経症(?)を患い、外出できなくなった時期があったと言う。少しずつ家の周囲を歩き、作品を作ることで、彼は、“暴力的に流れる力のようなもの”と地続きであるという実感を回復する。
 審査員からは、この展示は鑑賞者に何を期待しているのか、との質問があった。非常に私的な物語を背景とするプランだけに、もっともな疑問であろう。プレゼンテーターは、おそらく鑑賞者はぞっとしたものを感じると思う、と答えた。そこでは、作家の個人的情念を超え出た普遍性、“力”へ接続する回路が生じると彼は言わんとしたのだと思う。
 http://www.k3.dion.ne.jp/~sinwade/


 越田博文は「光悦垣:解ける領界」と題し、自身の作品を展示するプランを発表する。
 絵画と、それを解析することにより作られた音楽によるインスタレーション。絵画を解析して音を作るという発想は既にありふれたものになっているし、提示されたアルゴリズムも最も基礎的なものであったと思う。


 最後に、審査員からの総評。
 応募のうち半数以上が、作家自身によるセルフプロデュースであったという。セルフプロデュースそれ自体は悪いことではないが、そこでは、“作品”と“展覧会”という二つのメディアに意識的になることが必要なのではないか、と長谷川、平芳、両者ともが指摘する。そして残念ながら、そのような水準のものは多くはない、と。
 もっとも、「展覧会ドラフト」の背景には、キュレーションの不在という問題意識もあるのだろうから、今回、“展覧会”自体への配慮の欠如ということが浮き彫りになったのは、それだけで意義のあることではないかと思う。


 個人的には、100件の中から選りすぐられたものにしては、少し拍子抜けのする内容であった。もちろんプレゼンテーションされた五つのプランには、それぞれに見るべきところがあったと思うが、群を抜く、という印象は受けなかった。
 審査員両名の言葉を踏まえると、ここで、キュレーションでは歴史に参照点を持つことが求められる、という遠藤水城の指摘が思い出される。美術史への配慮、先人への敬意のようなものがあってこそ、展覧会は、次代への継承という役割を果たすのではないか。
 またそれは、キュレーションに限らず、何らかの“情報”を編集する際には、常に求められる態度であろうと思う。