日本国憲法

 小嶋一郎『日本国憲法』を観る。


 会場は、京都芸術センター・フリースペース。
 昨年度、同センター主催の舞台芸術賞大賞を受賞した作品の再演である。


 概要は以下のとおり。
 スペースは元々小学校の体育館だったところで、演劇作品の上演ができるよう、掘り込んで高さを確保しており、周囲が数段の階段状になっている。会場にはセットのようなものは用意されていない。照明も、普通の蛍光灯が点けられているだけで、特段のものはない。スペースに入った観客は三々五々、階段状の床に座り込む。
 下手側と舞台奥の扉が開け放たれており、道行く人や、グランドでテニスコートの準備をする人が見える。
 パフォーマーはいつの間にか出てきて観客に紛れて座っている。演出家が、開幕の挨拶をし、立って観ること、スペースの中央に立ち入ることを推奨する。いつの間にか演者の一人が舞台下手に寝転がり、やがて、「日本国憲法」が発音され始める…。


 現代演劇にさして馴染みがあるわけではないうえ、後半の1/3をボンヤリと過ごしたので、何か言うのも面映いが、にしても、言葉を呼び込む作品であったと思う。


 作品序盤、「日本国民は」、「われわれは」と発語された時点で、「演劇」について卒然と二つのことに気づかされる。


 一つは、演劇というものが、極めて権力的/暴力的であるということ。
 ここで名指された「われわれ」は、第一に、観劇のために集った我々のことであろう。もちろん集ったのは観客の自発的な意思によるのであるが、しかし一旦劇場に入れば、観客は観客として一定時間上演に寄り添うことを強いられる。(たとえ、目を瞑っても耳を塞いでも席を立っても、「そのような仕方で」寄り添うことになる。)このことは、俳優と観客が(あるいは、開け放たれた扉を通じて、劇場内と劇場外が)混在する状況を意図的に作り出すことで、却って顕在化する。「われわれは」という発声に、それを予期せぬ観客としての我々は撃たれ、隣に立つパフォーマーの動きに常に遅れをとることになるのだから。
 それはちょうど、日本に生まれてしまった自分を、事後的に発見し、動揺するような状況に似ている。「われわれは」という「法」の声は、私に先んじてある。


 もう一つは、演劇というものが、相当にナショナルであるということ。
 それは『日本国憲法』という演劇において「憲法」を読み上げるとき、二重に顕わになる。
 第一に、本作品は日本語で上演されている。そのことは、日本語を解しない者を、事実上、放逐することになる。第二に、そこで読み上げられる「われわれ」には、当然、日本国民以外のものは含まれない。
 「われわれ」という発音は、(外見や状況から判断する限り)観客のほとんどを捕らえる。道行く彼を捕捉し、テニスをする彼女を絡めとる。が、扉から覗き込んでいる、あの異邦人の前を素通りする。彼は、おそらくこの演劇を解しないだろうし、また「われわれ」でもない。作品『日本国憲法』においては、この俳優の声の届く範囲が、演劇のサイズと、日本の領域を決定するのだ。


 ついでに。本作品では、日本国憲法というテキストを通じて、国民のことと家族のことがパラレルに語られていたように思う。が、そこのところは、要を得ぬまままま。気づくと上演が終わっていた。
 扉からは狐色の秋の陽光。