路上のエスノグラフィ

 吉見俊哉北田暁大編『路上のエスノグラフィ』読了。


 路上のパフォーマーたちは、単に都市空間の日々の変化と交渉しながら活動するばらばらな存在ではない。彼らの活動を、都市とメディアの交わる場所として、そこから生まれる多面的で重層的な営みとして理解することで、新たなパフォーマー研究の可能性を探る。


 東大院ゼミ生のフィールドワーク報告集。
 シカゴ学派カルチュラル・スタディーズの延長上で、「ストリート・アーティスト」、「ちんどん屋」、「サウンド・デモ」、「グラフィティ・ライター」について考察する。
 エスノグラフィと言うよりルポルタージュと捉えるべき箇所もあるが、優れた分析が随所に見られる。


 一つ例を挙げるならば、たとえば、ちんどん屋のあり方を通じ、「抵抗」概念の再定義の可能性を見出すくだりはなかなか興味深い。
 僕は、個人的には、革命的な変動を求める心情に共感できないところがある。世界へ飛び出していくようなメンタリティも、そのような活力への敬意と憧れはあるが、残念ながら僕のものではない。非難を受けようとも、それでも、「半径数kmの生活空間を重視すること」、「対面的なネットワークを重視すること」が、僕にとってのリアリティなのである。(もしも僕が第一インターナショナルの高揚の渦中にいたならば、僕はさぞかしバツの悪い思いを味わったであろう。)
 このとき、少しずつずらして実践していくこと、そのような弱い「流用」を「抵抗」と位置付け直すことは、僕にも共感できるように思う。それは、抵抗ではなく、調停とでも言うべきものかも知れない。


 このような視点で、後半の「グラフィティ・ライター」の章を読むとき、また僕はとまどいを覚える。
 グラフィティのハードコアは闘争である、と僕は考える。従ってグラフィティは、半ば不可避的に、既存の社会制度への強い抵抗(ヴァンダリズム)として現れることになる。フラジャイルな心情を持つ小役人たる僕としては、そのような闘争の意義を知りつつも、しかし、それを素直に称揚することはできない。知り合いのライターの逸話を単純には笑えないし、自分の家の壁にタギングがなされれば、やはり眉を顰めるであろう。
 しかし、グラフィティへのある種の不同意がある一方で、そのヴァンダリズムと社会を調停しようとする動き(たとえばリーガル・ウォール)にも、同時に、僕は胡散臭さを感じてしまう。
 僕の「とまどい」はここに現れる。何故、僕は「ちんどん屋」の弱い流用には頷けて、「グラフィティ」においてなされる調停には同意できないのだろう、と。


 本書の分析は、かように、また新たな疑問と問題系を生み出す。それは良書の証と言うものだろう。