木曜日の私塾

 「木曜日の私塾」へ行く。


 「表現の専門家講座「木曜日の私塾」は、表現の専門家であることを目指す人による/のための講座です。広義の「政治と哲学」をキーワードに表現や批評に必要な力を鍛えることを目指しています。
 第1期(月曜日の私塾・2008年)、第2期(水曜日の私塾・2009年)を経て、第3期として開催します。」とのこと。


 現代美術作家のブブ・ド・ラ・マドレーヌ、京都文教大学教員・佐藤知久、京都精華大学教員・山田創平が主催。今期の主会場はART ZONEで、運営にも京都造形大の学生が関わっている。


 今回は、ブブ・ド・ラ・マドレーヌの話題提供。「芸術と生活−展開編」と題し、「水図プロジェクト」が紹介された。同プロジェクトは、水都大阪、BEPPU PROJECT等の思考を経て、京都精華大学で開催された「LIFE with ART」展で展開されたもの。陸と海を反転させた“水図”と、音、テキスト映像により構成される。


 プロジェクトの基本的な問題意識は、「豊潤な水気」というところにある。
 作家は、かつて世界は水気に満ちていたのではないか、と指摘する。我々は水路を覆い、海辺を埋め立て、湿地をコンクリートで覆い、「じめっとしたもの」を隠蔽することで近代化を果たしたのだ、と。
 海の路は、数千年の昔から、人やモノが行き来する通路であった。それは交易の道であり、鉄の運ばれた道であると同時に、死者の道であり、我々が海蛇に導かれて「常世」へ向かう、そのための道であった。
 水は人間の身体の内にも流れている。が、自分の身体の湿った部分、涙や、血液、体液、じめじめした感情をもまた、我々は穢らわしいものとして排除してきた。それらはすべて、今でもなお、数千年前と同じように、海へと流れ込み混じり合っているのだ。
 水図プロジェクトは、そのような水の物語を改めて紡ぐことを意図している。


 先日、祇園祭山鉾連合会の吉田理事長にお話を伺う機会が合った。幾重にも重なった祭礼の歴史のことをカクシャクと。途中、氏は「何故、祇園祭が、このように暑い夏に催されるのかを、今一度思い出さねばならない」と語られた。梅雨、京に降り込んだ水は、盆地の底に溜り、腐敗し、やがて人の間に疫病を蔓延させる。祇園は病のための祭なのだ、と氏は言う。


 同プロジェクトの重要な概念の一つに、「海境/ウナサカ」というものがあると思う。ざっくり言うと、海の世界と陸(人)の世界を隔てる境界、というくらいの概念だ。そこは同時に、死者と生者の境としても現れることがある。
 たとえば、アンデルセンの『人魚姫』はウナサカについてのお話であった。海の境を越えた人魚姫は、代償として声を失い、さらに、歩く度にナイフで抉られるような痛みを覚える破目になる。これは、言い換えるならば、音楽と大地の消失である。佐々木中に即して言うならば、即ちこれは、領土の喪失である。*1人魚姫は陸に上がるときに、最も根源的な領土/家/巣を打ち棄てたのだ。ウナサカを越えるには、そのようなリスクを引き受けねばならないのであり、それはほとんど不可能な出来事である。であるが故に、それはロマンの問題になる。
 海境のことは、夜の浜辺に立ち、浜風を受けながら暗い水平線を眺めれば、茫々と感じ取ることができる。そこには、いつも、死者たちの灯が点されている。我々は、どこかでウナサカのことを感知し、海の向こうへの焦がれるような想いを抱きながら、しかしなお、此岸に立ち尽くす。立ち尽くさざるを得ないのだ。


 ARTZONE 「木曜日の私塾」開催 | アートプロデュース学科

*1:「我々は、音をたてることで、また、大地を踏むことで、己のテリトリーを主張する。そのような事態を指してアーキテクチャー、すなわちアルキ(源)・テクネー(芸術)と言うのだ。」と佐々木は指摘する。