エンジェルス・イン・アメリカ

 京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2011 開幕。


 オープニングは、KUNIO『エンジェルス・イン・アメリカ』
 「ロンドンのナショナル・シアターが「二十世紀最も偉大な戯曲10本」のひとつにも選んだ、トニー・クシュナーの傑作戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』。京都芸術センター舞台芸術賞2009佳作、第1部「至福千年紀が近づく」の再演とともに、第2部「ペレストロイカ」の2本立て連続上演に挑む!上演時間が合計7時間を超えるアメリカ演劇史を代表する大作が、いまどのようにたち現れるのか?」とのこと。


 舞台は、1986年前後のニューヨーク。チェルノブイリの事故が1986年4月であり、ペレストロイカの真っ只中であり、またエイズに対するヒステリックな混乱のさなかである。
 戯曲は1989年に初演されている。それから20年以上が経つわけだが、作品に描き出された状況は、今なお、あるいは当時以上に、アクチュアルな問題として認識されているように思う。


 戯曲の射程は極めて広く、その一々を指摘することは僕には到底できない。強いて一つだけ、最も重要と思われる点を挙げるなら、それは「進むこと」ではないかと思う。
 時空の領域を、経験を、拡張すること。これは、アメリカの主たる原理であるだろうし、近代なるものの要諦であると思う。進み続ける人間の姿は、困難に立ち向かう者としてポジティブに捉えられると同時に、背をこづかれ、よろびつつ歩を進める死刑囚のそれと見ることもできる。いずれにせよ、我々は前に進むしかない。そのことを戯曲は指し示しているのではないか。
 作中、エンジェルたちは「止まれ、人間たちよ」と言う。そのような言葉を、ゲイで、エイズに身体を蝕まれるプライヤー・ウォルターに託す。しかし、止まることはできないのである。人間ができるのは、ただ方向と速度をモディファイすることだけである。進みながら、どのような物思いに耽ろうと、どのような困難を経験しようと、我々は歩みを止めることを許されていない。というのも、神が死んでからこの方、線的な時間意識のうちにのみ、我々は生を受けることになっているからだ。


 KUNIO『エンジェルス・イン・アメリカ』は、上演時間が8時間半に及ぶ。恐らく、あまり類を見ない重量級の演劇体験であろうと想像するが、しかし、観客は、意外と容易にその時間を受け取ることができる。良質のマンガを夜を徹して読みふける感覚に近い。
 そのリーダビリティが、杉原の演出の賜物なのか、僕にはよく分からない。いずれにせよ、ロイ・コーンの機関銃のような罵詈雑言や、一人の役者のうちに幾つかの文脈が堆積して行く様、また、森田正和の不思議な容貌を眺め、幾度もの演劇的快感を貪るうちに、僕は夜を迎えた。