信濃川

 新潟三日目。


 水と土の芸術祭。バスツアーに乗っかって、信濃川沿いの作品を見る。
 ツアーでは、ニイガタ検定の上級者がボランティアで添乗し、市のあれこれを教えてくれる。


 その後、新潟市の担当の方にお会いする。
 芸術祭の実務的な話をお聞きした後に、新潟市のことを色々と伺う。


 ツアーで教えていただいたこと、新潟市職員の方のお話を総合すると、概ね以下のような感じになる。

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 新潟市は川の街だ。
 市内を信濃川阿賀野川の二つが流れている。信濃川は、よく知られるように日本最長の川で、水量でも日本一だ。阿賀野川も水量で全国三位。
 同時に、新潟市は土の街でもある。
 縄文時代新潟市を中心とした越後平野日本海であった。信濃川阿賀野川が運んできた土砂と、対馬海流が運んできた土砂が堆積し、現在の越後平野を形成した。


 信濃川の側を走るとよく実感できただろうが、街には、海抜ゼロメートル地帯が散在する。かつては、それらの土地は、雨が降ると、川から溢れた水で水浸しになってしまった。当然、家屋も、農作物も駄目になる。川の氾濫を抑えようとして、新潟では、明治時代に本格的な分水工事がなされた。(1870年に着工し完成まで54年を要した。)その後も分水路やダムが幾度も建設されてきたが、しかし、川は容赦なく氾濫し続けている。近年では、2004年の豪雨で、新潟市の上流で大きな被害が生じた。
 洪水を象徴するヤマタノオロチの神話は、その源流は出雲のものであるが、新潟でもまた、実感を持って受け止められたのではないかと思う。


 一方で、川は新潟が栄える大きな要素でもあった。信濃川では、江戸から明治にかけて、川舟による通船が全盛を迎え、流域の物流を担った。河口では古くから沼垂(ぬったり)津、新潟津等の港が栄え、特に新潟は江戸時代に大きく発展し、1860年、函館、横浜、神戸、長崎と並んで、日米修好通商条約による開港場の一つとされた。


 意外なことだが、新潟は、明治の頃には全国で人口最多の県だった。やがて産業構造の変遷に伴い、新潟は、東京に労働力を供給する供給源になった。東京に行くと、親戚が新潟にいるという人がわりと多い。
 現在、新潟市の近隣では、長岡市の人口が二十八万人、会津若松市が十二万人。衛星都市と言える程の規模の町がなく、孤立している感が強い。例えば、東北では仙台市がハブとして機能しているが、新潟には、そのような「ハブ」という概念が成立する程の町がない。


 新潟は、北一輝山本五十六坂口安吾田中角栄らを輩出している。アート関係で言うと、北川フラムや会田誠らだ。たまたまこれらの人が目に付いただけかも知れないが、何と言うか、時折ぽんと、激烈な質の人物を生む土地柄のように思える。