かもめはかもめ

 「“普通の力”を解き放て!」第三回を聴講。
 アルフレッド・ヒッチコック『鳥』を題材に、引き続き、廣瀬氏が語る。


 今回はメモを取ったので、わりと再現できるはず。多分。

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 前回、360°のスクリーンという話をした。これは世界中(万国)の鳥たちが見える/全員がそこにいるということの象徴である。


 ここで、時代を三つに区切って考えてみよう。
 一つ目は1848〜1917年。『共産党宣言』が書かれてから、ロシア革命が起こるまでの間だ。この時代、経営者は生産に口出しをせず、親方や熟練工に仕事を任せていた。内部請負制度の時代だ。熟練、非熟練という縦の階層と、職能別の分担があり、そして“技術”は親方たちの身体に体現されていた。
 実はレーニン主義は、このような当時の資本制のモデルをそのままコピーして登場した。革命家と大衆という階層、分担。このときはまだ、工場の中の専門的な“鳥”が問題とされている。万国の、普通の鳥は問題ではない。


 二つ目の時代は、1917〜1968年。ロシア革命からフランス・五月革命の間だ。ロシアで資本主義のモデルが革命に流用されたのを見て、各国で資本主義のモデル自体を変更しようという動きが起こった。テイラーシステムの導入だ。親方の身体に体現されていた“技術”は、今や、機械の中に物理的に固定されてしまう。“技術”は属人的なものではなくなる。ほとんどの労働者は“普通の人”になり、仕事は単純作業になる。同一の労働を同一の賃金で行う。
 しかし、この段階でも、まだ万国の“鳥”は問題ではない。


 三つ目の時代は、1968〜現在。1968年に起こったことは、労働者たちが、鳥かごとしての工場から己を解放することだった。その年、人々は「毎日九時から五時まで、死ぬまで工場で働くなんて嫌だ。好きなときに好きなところで働こう!」と叫んだ。フリーターの登場だ。
 しかし『鳥』で起きていたことは、鳥が鳥かごから解放されると同時に、360°のスクリーンの中に捕えられる、ということではなかったか。同じことが社会でも起こった。労働者たちが勝ち取ったスタイルは、そっくりそのまま反転して、資本主義に利用されることになった。工場の外、世界そのものが生産の現場になり、世界全体が鳥かごになった。現在では、ニートも寝たきり老人も、多かれ少なかれ社会的ネットワークに接続され、生産プロセスに貢献させられている。


 社会的ネットワークにつながっている以上、全ての会社のために、全員が休むことなく働いていることになる。たとえ派遣切りに遭っても、それは枠の中で待機しているだけだ。潜在的労働状態であり、言わば不払い労働の状態なのである。
 世界という工場で、今、“技術”は脳に体現されている。かつて“技術”が機械に固定されたが、その前の段階に立ち戻ったと言えるのではないか。


 どうすれば、このような社会的生産から逃れられるか。“鳥”たちはいかにして恐ろしいものにならずにすむか。これはもう、かもめはかもめ、という同語断定の中にしか、可能性はないのではないか。いかにして付加価値を搾り取られずに、いるか。
 ここで、小津安二郎の登場である。ババーン!つづく

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 廣瀬氏の、世界全体が生産現場になっている、と言う指摘は、抽象的なレベルから具象的なレベルまで、様々な形で捉えることができる。
 たとえば、物理的には「ウェブによる時間と距離の無効化」ということに現されるであろう。そうであるならば、社会的ネットワークによる、当人も把握しないままの生産への貢献という件は、ネットワークコンピューティングとして概念化される。世界中のPCをつなぐことで、一つの巨大なコンピュータとして働かせる、そのような技術。
 ここで、僕は『マトリックス』のことを思い出さずにはいられない。物語では、人々は巨大なコンピュータに接続され、気づかぬうちに、そのエネルギー源として(のみ)生かされている。その間、彼らは夢を見ている。翻って考えるに、果たして、夢から覚めることは幸せであろうか。そこには、搾取はないかも知れないが、より過酷な運命が待ち構えている。かもめはかもめ、と言って、その運命を引き受けることは、それほど容易いことではない。


 ここには時間、過去と未来を含んだ歴史をどのように扱うかという問題が絡んでいる。もっと正確に言えば、過去のように見える未来、すなわちデジャヴが。永遠回帰が。
 テーマは、映画から写真へと移行せずにはいられないであろう。