ラグジュアリー

 京都国立近代美術館「ラグジュアリー:ファッションの欲望」展を観る。


 ラグジュアリーと一口に言っても、そこからは、様々な表象が立ち上がる。本展では、全体を四つのセッションに分けて、ラグジュアリーを検討する。


 一、着飾ることは自分の力を示すこと
 金銀宝石、繊細で手間暇かかる刺繍やレース、それらによる絢爛豪華な世界が展開される。セッション・タイトルであるパスカルの言葉が的確に示すように、見ること、見られることの欲望の渦、力としてのラグジュアリーがテーマとなる。
 一、削ぎ落とすことは飾ること
 シンプルだが豊穣なライン、綿密な計算に基づくカッティング、高い技術力に支えられた細部の一々…。“密やかな”ラグジュアリーが示される。
 一、冒険する精神
 「今までにない服」、知性と脱構築のラグジュアリーとして、川久保玲の作品が並ぶ。畠山直哉の写真付。
 一、一つだけの服
 ユニークであることのラグジュアリー。マルタン・マルジェラの服は、時間の堆積とともに、アウラの復活を強調する。


 本展に先立って、一連のセミナーが開催されている。その中で、松岡正剛氏が、「粋と奢り」と題し、ラグジュアリーについて語っている。
 彼は、京都のラグジュアリーについて言及する。京都には、一方に、ブラックホールのように世界を凝縮する黒茶碗としてのラグジュアリーがあり、また一方で、絢爛豪華で破天荒なラグジュアリーがある、とする。それは和御魂/荒御魂の対立であり、侘び寂び/傾(かぶ)きの対立である。
 しかし、現在の京都には、和御魂はあっても、突如として新京極通りを建設するような荒御魂はないのではないか、と問う。京都に今後もラグジュアリーがあり続けるかどうかは、そのような対立の復活がキーになるだろう、と。


 本展では、ラグジュアリーの多くの側面が検討されている。各セッションはよく練られた上でのものだと納得される。物質・権力・豪奢といったパブリックイメージに始まり、無性、知性、時間性といったラグジュアリーの要素をよく捉えていると思う。
 これ以外にラグジュアリーがあるとすれば、それは“人と人”の問題になるだろう。そこからは、また別の欲望の話が立ち上がるだろうし、松岡氏の指摘もいっそう精彩を帯びるだろうと思うが、それはまた別の話。


ラグジュアリー:ファッションの欲望 | 京都国立近代美術館