歴史の歴史

 国立国際美術館「歴史の歴史」展を観る。


 杉本博司の凄味は、その作品の見せ方にある、と常々思っていたが、益々その感を強くする。
 「見せ方」の内には、作品単体のクオリティー、物理的な配置の仕方、それらの関連のつけ方、それに言葉の按配まで、幾つものレイヤーがある。それは、松岡正剛の言葉を借りるなら「情報の編集」というアート/技術であろう。
 杉本のアートは尋常ではない。時間軸のうねり、光の照応、硬質なエッジ、有機的で底の伺えぬ造形。それらがないまぜになって、彼の世界を生み出す。今回展示されたもの(数億年前の化石から、NASA宇宙食まで)を総じて「杉本博司」と冠するのは、甚だ恐ろしいことだが、その恐ろしさまでを御して、これが一つの世界であると納得させる力がある。幾重にも恐ろしいことである。


 ことに感じ入ったのは、新作「放電場」のシークエンスであった。
 広い空間に、十枚程の「放電」の写真がライトボックス様にして置かれている。暗い照明の続いた後だけに、明るい白色光が眼を射る。一方の壁には全面に鏡が張られ、一枚が派手に割られている。一隅には、デュシャンの古いポートレート写真。これまたフレームのガラスが割られている。
 ツイと立つ、雷神像。ケレン味に満ちる。
 が、省みると、鏡も、鏡/ガラスの割れも、タルボットに触れた文章も、もちろん放電の写真も、すべてにフックがあり、次々と考えを進められる。(これは空間の割れであり、時間のズレであり、ズレたところで一致した何ものかではないのか。それが一人の美術家の中で遭遇しているのではないか。これは大きな「写真」なのか?云々。)


 過日、青山の骨董屋でガンダーラ時代のレリーフを見たときに、軽い眩暈を覚えたことを思い出す。その白い石の表面に幾許の時間が積もっているのだろう。どのようにして、彼女は海を渡り、今ここにいるのだろう。それは「歴史」を想うときに、多くの人が抱く感慨ではないだろうか。
 その伝でいけば、本展は、息を吐くこともできない。深い海に潜って人魚に会う程の、心身を削られるような類のものである。


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