何に因って?

 アイ・ウェイウェイ展を観る。


 サマリーをまとめると、次のようになる。
 「アイ・ウェイウェイは、現代中国を代表するクリエイターの一人だ。美術、建築、デザイン、出版、展覧会企画など多岐にわたる分野で活躍しているが、とくに二〇〇七年のドクメンタ等によって国際的な評価を高めた。
 本展は、新作六点を含め、一九九〇年代以降の主要作品二十六点を紹介する過去最大級の個展となる。立体、写真、ビデオ、インスタレーションなど多岐にわたる表現を「基礎的な形体とボリューム」、「構造とクラフトマンシップ」、「伝統の革新と継承」という観点から見つめつつ、一九九九年以降の建築プロジェクト等も併せて紹介する。アイの作品を横断的に読み解くことで、表現のジャンルとしては中間的で曖昧な領域から、文化的、歴史的、社会的な因果関係、「何が何に因って在るのか」、そして「自分はどこから来て、どこへ行くのか」という人間の根源的な問いが浮き彫りになってくる。」


 会場の冒頭には、新作「1トンのお茶」などが並べられる。
 アイの作品はいずれも、極めて洗練されている。それらは、しばしばとてもミニマルであり、職人技に支えられた精緻さを見せる。アイの作品は、端的に美しい。


 同時に、作品からは彼の問題意識も強く感じ取れる。唯一(ユニーク)であり、断片(ピース)であること。時間と空間の中での、点としての在り様。それらは、一旦、点として意識されるが、すぐに点のつながり、点の集積の問題へと反転する。
 たとえば、先の「1トンのお茶」は、一辺が1メートルで、重量は1トン、密度は水と同じになる。単位のシステムに正確に準拠することで、それは、クールに、断片性を象徴する。しかし作品は、同時に、プーアル茶がブロック状に固められて保存・運搬されるという伝統をも踏まえている。ブロックのディテールは、辺りに仄かに漂うお茶の香りと相俟って、それを作った誰かの手を想像させる。作品は、お茶のブロックであると同時に、時間の堆積であり、文化のネットワークの交点として立ち現れる。


 アイはウリ・シグ氏の「あなたは歴史の中でどのようにありたいか」という問いに、「忘却されたい」と答える。
 歴史の問題を語るとき、歴史の側から個々の事実を照らす方法と、その逆の方法がある。「私」へ流れ込み、流れ出す奔流としての歴史。歴史という未決定の可能性としての「私」。これを踏まえるならば、歴史の中で忘却されるとはどういうことであろう。それは特異点としての「私」をもたない歴史を考えるということではないか。個々の事実から歴史を観るという在り様、未だ決まらざる「私」を考えるということである。悲劇も喜劇もない、世の人とひとしなみの淡々たる、しかし滔々たる歴史。
 アイの作品を観るとき、その精緻さの向こうに、僕は大きな大河としての時間の流れを感じる。数百万、数千万の人々の蠢動を感じる。それは危険なエネルギーでもあり得るだろうが、彼にはその力への信頼と、意志を感じる。