絵画と写真の交差

 名古屋市美術館「絵画と写真の交差 印象派誕生の軌跡」展を観る。


 以下HPから要約。
 「写真の誕生から170年が経った。この展覧会では、タルボットなど写真草創期の作品に始まり、バルビゾン派印象派に多大な影響を与えた写真、逆に絵画から影響を受けたピクトリアリズムと呼ばれる写真、そして、写真の独自性を追究しながら展開してきた現代の写真に至るまでの流れを辿ることにより、写真という芸術の多様性や広がりを感じていただけるものと思う。
 絵画と写真。この二つの芸術は、ときに寄り添い、ときに反発しながら歩んで来た。二つの芸術の歩みを辿りながら、それらがどのように関わり合い、どのようにインスピレーションを与え合うことによって、それぞれの芸術を深化させていったかを検証する。」


 「絵画と写真」というのは古くて新しいテーマであろう。その問題意識からは、ルネサンスから二十一世紀に至る美術の潮流が、するすると芋づる式に引き出し得るであろうし、事実、そのような言説、企画は枚挙に暇がない。写真が終わりつつある今、そのテーマのアクチュアリティーは、かえって高まるように思えるが、だからこそ、何故、今このような展示を企画するのか、わりと厳しく問われるのではないかと思う。
 僕には、歌川広重の浮世絵がこの文脈に並べられたのが新鮮であったが、それ以上の強いものは感じられなかった。最初にカメラオブスキュラが置かれ、クールベドガとマイブリッジが居並ぶ様は、どこか既視感が漂う。




 すぐに自己反省を差し挟むが、このように、既視感がある、と言って済ませるのはよくないことではある。物事を、自分の知ったカテゴリーに投げ込んで、蓋をするのは面白くないことである。
 クールベの波の中には、僕の知らぬクールベが潜んでいるかも知れないのだし、初めてそれらを見たときの凄味というのを執拗に味わうこともまた、物事の見方であるだろう。PC。




 併せて、杉本博司の講演を聴く。演題は「アートの起源」。
 杉本博司に生で触れるのは初めてのことであった。話は、彼の展示が示す通り、広く深く、茫々と身を委ねるごときものであり、それ自体面白いものであったが、それ以上に、僕は彼の「声」に興味を引かれた。クリアで厚く滋味深く、楽しげな氏の声は、それだけでもよいものである。
 最近、アクティブな人のそばにいると、自分もアクティブになることがある、ということについて様々に考えることがある。その機制の重要な要素には「声」がある。最も身近な「声」というのは、おそらく自分自身のそれであろう。自分の内側の空洞に響き、骨や肉を伝い、脳を震わせる、我々の声。それは黙って何かを考えている時にも、常に発せられているのだという。
 この話はもう少し考えてみようと思う。