人はなぜ「美しい」がわかるのか

 橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』読了。


 美学や、脳科学や、社会学。美しさの理解については、様々なアプローチがあり得ると思うが、橋本はそれらのいずれも採用しない。彼は、あくまで個人の体験の上で、「「美しい」がわかるということ」を捉えようとする。従ってそれは体系的な論述ではあり得ないし、読者のすべてが首肯し得るようなものでもない。そこには、無数の可能性を無理やりに切り捨てたような偏狭さが、いつまでも付いて回る。
 が、だからこそ、意味があるのかも知れない、とも思う。


 橋本治という人は、相当に癖のある書き手だ。
 彼の文章は、論の相当の部分が、「私にはそうとしか考えられないのです。」式の自己肯定で進められていく。そこには、クリアな認識はあるが、論理はない。
 このこととほとんど同じことだが、彼は、一つの文を「」で括ることで名詞化する、という書き方を頻繁にする。(「私の知る水仙の花は「白い花びらの中心に黄色い筒が出ている」です。」とか。)ある種の状況をオブジェクト化することで高次の思考を開いていく、という手法は、確かに明快な思考をもたらす。が、しかし、その様な手続きは、ロジックとして、決して滑らかではないのではないか。「一まとめの対象にする」という手続き自体は、あくまで彼の独断的な判断で推し進められているに過ぎず、自明なことではないし、論理的に納得されるものでもない。それは、原理的には、理解のしやすさ、美しさ、楽しさ、というある種の価値観、倫理的判断によるものであろう。
 橋本治という人は、その手続きの野蛮さへの配慮をすっ飛ばし、彼の中の自明さをひたすらに追い求める。友人が指摘するとおり、彼は、あたかも話をするように、文章を書いているのであろう。パソコン上であれやこれやと段落を入れ替え推敲するのではなく、飛び散る電撃を追って、舌の回る速度と、脳のパルスのシンクロする時点で、論を進めているのであろう、と思う。
 結果的に、彼の文章は、たいそう気持ち悪い。


 が、だからこそ、意味があるのかも知れない、とも思う。

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

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