長谷川等伯

 京都国立博物館長谷川等伯」展を観る。


 等伯没後四百年の記念展、国宝二件、重要文化財三十件を含み、代表作をほぼ網羅等々、物々しい文言が並ぶ。東京では二十九万人の観客を動員したという。会期の短さに比せば破格の数字であり、京都でも大混雑が予想される。
 こちらは赤子連れの身、多少とも空いている平日の開館時にと思い、ベビーカーを押しつつ勇んで出かけた。


 が、何と言うか、全く見えないのである。
 物理的に見えないというのではない。確かに混んではいるが、その気になれば、一点ずつ近くで鑑賞する余裕は十分にある。にもかかわらず、ベビーカーの取り回しや時間的制約が気になって、絵に心が向かないのだ。
 垂涎ものの作品が目白押しであることが、頭では分かっているし、その気配も感じられるのだが、いかんせんどこをどう見るべきなのか、眼が働かない。辛うじて、二件の国宝の前で足を止めたが、あとはほぼ素通り。


 作品を見る眼というのは、一朝一夕で得られるものではない。多くの経験や思考を通じて、評価軸、自分の趣味、理想像というものを、少しずつ体得していくものだ。
 十年以上の意識的な試行により自分の尺度をつくり上げてきた、と僕は密かに自負しているが、それが、その眼が完全にダウンしている。


 これは、相当にショックである。