共通感覚論

 中村雄二郎『共通感覚論』読了。


 〈常識〉を意味するコモン・センスという言葉は、アリストテレス以来、五感を統合する根源的能力の〈共通感覚〉を意味していた。この二つはどのように結びつき、関係するのだろうか。古今の知見を縦横に駆使し、人間や芸術に関する多くの重要な問題がコモン・センスの問題にかかわることを明らかにした現代哲学の記念碑的著作。


 僕の問題意識の重要なものの一つに「共感」がある。どのようにして「共感」が起こるのか、そもそも「共感」は可能か、という素朴な問い。その手引きとなればと思い、手に取った。


 が、本書は、上述のような問いに直裁に答えるものではない。本書は、第一に、「常識」としての共通感覚についての書であり、第二に、視覚や触覚を統合するものとしての共通感覚の書である。
 期待外れな思いを抱えて、僕は文章の前半を読み進めたのだが、しかし、途中から様相は一変する。「共通感覚」は、当初の僕の読みとは異なり、極めて広い射程をもった問題へと拡張される。
 そこでは、イメージ、言語、良識が現れ、また、記憶、時間、トポスのことが語られる。あくまで中村自身の問題意識の上に、古今東西の論が引かれ、そこに著者の見解が上積みされていく。雪の降り積もる如く。


 中村雄二郎という人のことを、僕はあまり知らない。が、たいそう面白い人のように見える。彼の、この前も、この後も知りたいという気になる。
 前も、後も、というのは、彼がいつも途上の人だからだろうと思う。ある種の書物では、そこに書かれていることが、あたかも最初から分かっていたというように記述される。が、中村はそうではない。一つの文章の中で、いつでも、迷い、気づき、拡張し、飛躍する。(だからこそ、僕は前半で読み違えたのである。)そのプロセスが最上級の知性として提示されているのだから、面白くないわけがない。


 以前、僕は「共感」を自己と他者の間に引かれる点線として考えた。点線であるから、その隙間から、自己と他者は相互に漏れ出ていく。
 が、点線ではなく、中継地として考える方がよい気もする。
 「常識」として登録された蓋然性のかたまり。そのかたまりは、唯一絶対の真理ではなく、また、常時更新される。そこには歴史が流れ込み、あるいは、場面ごとのサブシステムとしても立ち上がる。そのような場所をイメージする。
 時に応じて、我々は、そこを参照する。寿司を食して、友人とともに、これうまいね、と頷きあうとき。二人は、中継地をともに参照するという形で、共感を自覚するのではないか。このように考えれば、他者の考えは最終的には理解できないのだ、という反論に応えられるような気もするが…。
 

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)