京都藝術前夜祭

 京都藝術前夜祭へ行く。


 京都藝術。
 2010年8月の1ヶ月間に、京都市内の様々な会場にて行われる展覧会やイベントに対して全体の連携をはかり、
ジャンルや世代をまたいで豊かに広がる「京都藝術」を一覧できる機会をつくる、とのこと。
 主催は、Antenna、0000ほか。
 主な活動は、Kyoto Arts Fileという広報誌を発行すること。また、ギャラリーツアー、お寺ツアー、トークイベント等を実施する。第一印象は、Kyoto Art Mapの拡大版という感じだ。
 京都藝術は、同時期に開催される「わくわくKYOTOプロジェクト」と主催者が一部重なっており、強くリンクしている。混同しがちだが、「わくわく」が作品の展示を主眼としたものであるのに対し、京都藝術は、京都の歴史性に言及するなど、より視野の広いものであり、プラットフォームの提供という意味合いが強い。


 京都藝術については、幾つかの批判の(とまでは言わなくとも冷めた)声を聞く。「批評性を欠く」「ただのお祭ではないか」「内輪の集まりに見える」等々。これらの批判は、ある程度まで当たっているだろうと思う。
 京都藝術は、京都の歴史、伝統文化に言及し、文化の全体像を見渡す、としているが、実際には、そのようなアウトプットを見ることはできない。むしろ、現代美術のプレゼンスが際立ち、コンセプトとの大きな乖離を感じさせる。
 さらに、京都の歴史、伝統文化への言及の仕方自体も、決して深みのあるものとは言えない。そこからは、京都のパブリックイメージを表層的に掬い取るような、浅薄さを感じる。
 このような粗さは、準備期間の短さによるところも大きいであろう。(京都藝術では、実質的に、三ヶ月に満たない期間で製作が行われている。)異なる文脈を呼び込み、コンセプトを実体化するには、いささか時間が足りなかったのであろうし、また、それをよしとする“甘さ”が批判を呼ぶのであろうと思う。


 とは言え、僕は、そのような批判を踏まえてなお、京都藝術を評価したい。


 まず第一に、タイミングの問題がある。少しずつ京都のアートシーンが発熱しつつある中、京都藝術のようなプラットフォームの構築は、機を捉えたものであり、求められていたものであろうと思う。
 また、成功しているかどうかはともかく、京都藝術が現代美術の外を志向していることも重要である。アートに限らず、文化芸術のどのようなレベルにおいても、蛸壺化は容易に生じる。そこでは、異なる文脈(それはアカデミズムであったり、近所の小学生であったり、古株のギャラリストであったりするだろう。)を呼び込む試みが、不断に求められる。
 第三に、京都藝術が歴史を志向している点にも注目すべきである。過去に何らかの形での敬意を示し、新たな言葉を紡ぐこと。大きな時間の流れと、小さなサイクル、そしてそのコントラストを明示すること。そのような態度がなければ、ブレイクスルーは生じないであろうと思う。


 さらに、これはAntennaという一作家の問題意識に関わることであるが、京都藝術の示すベタさが、実は相当に批評的であることも付け加えなければならない。
 Antennaは、従来から“日本の”祭や宗教的意匠を参照しながら、それを、ジャッピーという偶像に象徴させている。(ジャッピーの胸には富士山が描かれ、また、赤い丸鼻は梅干や日の丸を想わせる。)彼らは、ディズニー的マスコットの持つベタさをもって、逆説的に、日本という枠組の異様さ、日本人である自身の畸形性を名指している。
 Antennaのこのような来歴を下敷きにすると、京都藝術の仕掛ける「お寺めぐり」や「夏祭り」のベタさは、額面どおりに考えるわけにはいかなくなるだろう。


 京都藝術には、いくつものオペレーション上の不備はあったであろうと思う。言葉足らずな面も。
 しかし、完璧にクオリティコントロールされたものしか認めないという態度よりも、企画の美点に着目し、建設的に可能性を想像/創造することこそ、文化芸術に携わる者の、本来の態度なのではないかと思う。