0000

 2010年上半期、京都アートシーンの話題の一つは、0000の登場だろう。


 0000(オーフォー)。
 緑川雄太郎、Nam HyoJun、谷口創、Kim okkoの4人から成るアート・グループ。平均年齢、約24歳。
 2010年2月、京都・五条にギャラリーを開設。「ART FAIR FREE」、「¥2010 exhibition」、「京都藝術」等の企画、「カオス*ラウンジ」との連携、「アートバトルロワイアル」への参加など、次々と活動を展開し、存在感を示す。
 今後、アート・セレクトショップのオープン、村上隆との討論や、さらには株式会社化も予定されているという。
 モードな出で立ち、アクションの速さ、twitterを活用したプロモーションなど、そのスタイルはこれまでの京都にはなかったものであろうと思う。


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 0000は、“いろいろな角度から、「日本のアートシーン」を総合的に創り上げていくこと”を目指している。


 たとえば、0000は、アートを取り巻く「お金」に注目している。
 「ART FAIR FREE」では、アートフェアでありながら、作品は無料であった。そこでは、お金ではない何かを提示することで交換的に作品を手に入れる、という仕組みが用意された。(たとえば「個展開催の権利」「3ヶ月間、アシスタントになる」といった条件が示され、実際に合意がなされたらしい。)また、「¥2010 exhibition」では、全作品が2010円で販売された。結果、3日間で63点の作品が売買されたという。
 ここから見えるのは、彼らの、アートを産業として捉える視点と、アートにおける「例外的な経済」への懐疑であろう。「ART FAIR FREE」も「¥2010…」も、決して資本システムからの脱却を志向しているわけではない。それらは、あくまでシステム内部の「試供品」であり、作品流通の閉塞的状況をもう一度見直そう、というサジェスチョンであったと思う。それが彼らの言うとおり「ヘルシー」な状況を生むかどうかはともかく、ここには明確な問題意識が感じられるだろう。


 また、パーティー・カルチャーに意識的なことも、0000の特徴の一つとして挙げられるだろう。


 0000の登場は「突然」のことであった。僕にとってことさら突然と感じられるのは、彼らが、京都における従来の文脈から、明らかに逸脱していたからであろう。
 京都には狭い範囲に多数の芸大があり、卒業生も含め、クリエイターのコミュニティが形成されている。また、東京からは一定の心理的な距離があると思う(もちろん物理的にも)。京都の持つ歴史性、パブリックイメージとも相まって、そこには、それとは名指し難いながら、確かな「緩やかさ」が生じている。0000の示す、スタイリッシュさ、意志的で速い動き、パーティー・カルチャー、メジャー志向、一口に言えば「東京っぽさ」は、そのような京都の文脈にはそぐわぬものであっただろう。
 0000は、周到に、京都を選んでいる。京都でなら、東京では埋もれてしまうような動きも目に付くだろう。かと言って、京都は単なる地方都市というわけではない。少なくとも日本の美術界においては、東京に次ぐプレゼンスを示しており、また、国際的な認知度も相対的に高い。新しく「アートシーンを創り上げる」というとき、京都をその始点とすることは、正しい選択だろうと思う。
 0000の視線は、東京へ、東京に代表される日本へ、あるいは海外へと向いているように見える。彼らにとっては、京都に根付くことは重要度としては低いのかも知れない。


 0000に冠せられる形容詞に「アート界のF4(あるいは東方神起)」というものがある(ちなみにボーイズラブ的な見方もあった)。要するに、彼らは、アート界のアイドルと見なされたのだ。
 美術界においてアイドル的な扱いを受けた者は近い過去にも何人かいるが(HIROMIX松井冬子…)、0000は、より本質的な意味において偶像的である。
 彼らの企画には、その動きの速さのためか、しばしば言葉が追いついていない。あるべきはずのステイトメントが抜け落ち、Twitter上の断片的な情報だけが示されるという場合があった。また、「アートバトルロワイアル」においては、その出品作(ホワイトキューブの壁を白く塗り直す)に象徴されるように、確信犯的に、自身の存在を不可視にするところがあった。
 それは、言うなれば、否定による存立、という事態を生み出している。すなわち、0000は、「私は…ではない」という言い方で自身を定義づけているように見える。「あなたはAですか」「私はAではありません」「ではBですか」「Bでもありません。私は、あなたが想像するところの外に在るものです」。このような構造は、問う者を、下位の審級へと追いやる(内田樹風に言うと、問う者は「子ども」になる)。
 下位の審級から仰がれる(崇拝される)、(従ってそれゆえに)奥行きのないものを「偶像」と呼ぶのならば、0000のこのような在り方は、正しくアイドル的であると言えるだろう。
 一応断っておくが、0000は、戦略的に、自らについて語らないわけではない。(彼らは、幾つかのインタビューや議論の場で、自身の来歴や立場を明らかにし、その方向性を示している。)上述のような事態は、専ら彼らの速度ゆえに生じていることだ。


 0000について、僕は、まだ明確な評価をすることができない。彼らの一連のアクションがよいものであったか、彼らの目指す方向がよいものであるのか、僕には今のところ判断することができない。
 改めて考えると、彼らは、その結成から、まだ数ヶ月のグループなのだ。