境界線/不在

 なかもと真生「境界線/不在」展を観る。


 会場は作家自身の自宅、二階建ての一軒家。
 もともと窓に嵌められていたガラスが、割られ、床に置かれている。特に上階では一面にガラスが撒かれており、鑑賞者は、それらの上を歩くことになる。外光が反射し、無数の破片がキラキラと輝く。
 窓には割れ残ったガラスが少し。秋風が吹き込む。


 本作では、素材の煌きや、自宅を作品化するということのインパクトに目を奪われがちだが、なかもとの問題意識は、必ずしもそこにあるわけではない。作家は、“場”を立ち上げることに興味がある、という。
 二階では、開口部が木の板で閉ざされ、光はその隙間から差し込むばかりである。昼間は、数条の光がガラスに反射して輝きを見せるが、日の移ろいとともに様相は変化し、やがてすべてが闇に溶け込んでいく。その変化の質感、“場”の構造そのものがガラスの上で可視化されていること、それこそが作品の主眼であろう。


 乱暴に言うならば、彼は“場”と向き合い、それを暴き立てる。床を剥がし、窓を破るというフィジカルな作業を通じて、なかもとは“場”を暴く。その過程では、彼はいつも境界線に出会うであろう。日常と非日常の、常識と非常識の、あるいは、“空間”と“空間そのもの”との境界。
 それは、作品が作家自身の生活を侵犯しているという一事をとっても想像されることだが、相当にハードなことではないかと思う。


 本作のタイトルには「境界線」に加え、「不在」ということが冠せられている。一体、“どこで”“何が”存在しないというのだろうか。本作に照らして言えば、ここでは、やがて光が失われ(視覚的に)空間が消失するということが問題になるのではないか。すなわち、“場”そのものの不在性。
 彼が暴き立てたところには、何もなかった。
 このことは恐らく作家の問題意識の根本に関わることであろうが、僕にはまだ明確に判断することができない。もしかすると、そこからは“共感”についての僕の問題群への接続があり得るかも知れない。彼の次回作に注視したいと思う。


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