戦後京都の礎を築いたもの

 京都市文化政策史講座、第一回目。


 テーマは「戦後京都の礎を築いたもの−高山市政−」


 講師は清水武彦氏。
 元京都市職員で、職員局長、経済局長等を歴任された。高山市政(1950〜1966)下で文化政策や市総合計画の策定に携わった方で、現在、高山義三について文章をまとめておられる。御自身も、もう八十歳になられるが、極めて達者で、当時の細かいことをよく覚えておられる。


 話は市政の諸施策から、高山義三の生い立ち、思想にまで及ぶ。


 お話の中では、文化観光施設税の創設のくだりが印象深い。
 当時の京都市は、破産状態で国の保護下にあり、国の許可を得なければ何一つできないという状態にあった。夕張市と同じである。そのような中で、なお、京都会館建設の機運が高まり、財源を確保するために同税創設の案が出たのだそうだ。
 文化観光施設税は、寺社を観光する観光客から税を徴収するというものだ。直接の徴収は寺社が行うのだが、その創設には、当然、周到な根回しが必要になる。
 高山は持てるコネクションを総動員して、事に当たったという。たとえば、当時、京都市職員には僧侶(しかも後に僧正になるような大寺院の僧侶)が結構いたそうだが、彼らを集めて、寺社の勢力、関係を分析させたそうだ。あるいは、当時の総務大臣が同級生だったこともあり、高山は直談判に出向いたりもしている。
 このときに比べると、後の古都税は明らかに失敗であった、と清水氏は語る。


 また、競輪場の廃止の話も面白い。
 高山は初当選時から競輪場の廃止を公約として掲げていた。そのことで、蜷川京都府知事と対立したりもしている。(ちなみに高山は左派・組合の支援を得て選挙を戦ったが、当選後は、左派とは距離をとっている。変節漢とも呼ばれ、蜷川革新府政とは馴染まなかった。)
 当時の財政状況から、なかなか廃止には踏み切れなかったが、あるとき市職員が競輪に絡む不正で懲戒になるという事件があった。高山はこの機を捉え、「このような博打の胴元を市自らがやるわけにはいかない」と、一気に廃止に踏み切った。
 競輪の裏には、暴力団がいる。刑事弁護士の経験もある高山は、その事情にもよく通じていたようで、担当ポストに京都府警から人材を迎えたという。


 高山の父は京都市会議長、衆議院議員等を歴任している。随分ハイカラな家庭だったようで、高山は当時珍しかったレコードを聴いて育った。
 彼は、学生時代から社会主義運動に参加し、喫茶フランソワの左翼文化人サークルに出入りするなどする一方で、鳩山一郎の知己を得て自由党の結成に立ち会ったりもしている。京大大学院を終了した後、弁護士になり、出口王仁三郎事件を担当する。清濁併せ呑むスケールの大きさのようなものを感じさせる。