TRANS COMPLEX

 京都芸術センター「TRANS COMPLEX−情報技術時代の絵画」を観る。


 100件の応募の中から選ばれた、展覧会ドラフト2011入選者による展覧会。
 アーティスト自身によるセルフ・キュレーション。
 出展は、村山悟郎、彦坂敏昭。


 村山は、ベイトソンの“精神”:システム論を引き、自身を絵画的システムであると位置づける。一定の規則の下、繊維を編み、その上に下地を塗ってペイントをする、という作品を制作している。
 彦坂も、村山と同様に、制作に際して一定のルールを設定している。写真を下敷きに描かれる彼の“絵”は、一見、デジタル画像のような趣も感じさせる。
 ともに、カオス理論やオートポイエーシス等の科学的知見に刺激を受けて制作がなされている。


 関連企画として、京都大学教授・吉岡洋を招いて、トークイベントが行われる。
 吉岡は、冒頭、本展のコントラストとして、ハロルド・コーエンの提示したアーロンを置き、語り始める。概略は以下のとおり。
「1950年代の抽象表現主義において、絵画は死んだ、と宣言された。もちろん、それ以後絵画が一切描かれなくなったということではなく、歴史的・文化的な側面を排除した後に残る、純粋な絵画(それはメディウムとしての絵画である。)が極点に達したものとして理解される。
 しかし、絵画のもつ力は、それほど弱いものではない。瞬時に、その表象を把持できるという図像の持つパワー、ないしは、そのように世界を把握したいという我々の欲望は、一筋縄でいくものではない。
 ここでは、絵画を、ヴィレム・フルッサーの“文字以前と文字以後”という議論の中に置いて考える必要がある。文字以前は、図像による世界の把握がなされていた(これは、世界中に「世界樹」言説が遍在していることからも言えることである)が、文字以後は、そのような世界把握はテキストに置き換えられていく。そして、現在、世界を認識するためのメディアは、文字から、再び図像へ移行しようとしているのではないか。
 このようなスパンの中で「情報技術時代の絵画」を視るとき、それはロザリンド・クラウスの言う「ポスト・メディウム」を突き破るものとして、考えられるかも知れない。」


 トークの中では、彦坂の「世界は複雑過ぎて描き切ることができない」という発言が興味深かった。彼は同時に「別に描きたいものはない」とも話すが、先の発言を裏返すならば、実のところ、世界を描きたいという強い欲求(だけ)はあることになる。
 彦坂は、絵画の制作に当たって一定のルールを設定している。ここで、上のような欲望に焦点を当てるならば、彼は「世界を一つのルールに還元する」という企てを試みていると見ることもできる。
 科学には、超理論への信仰、世界を有限(可能であれば一つ)の方程式で表すことへの、拭い切れない欲望があるように思う。おそらく、作家が抱いている“困ったこと”には、そのような現代における唯一神の不在への苛立ちという側面もあるのだろう。
 更に穿った見方をすれば、彼がそのようにして描き出す世界の諸要素には、彼は今のところ、積極的な興味を見出すことができない。ここには、作家と世界しかない。このような事態は、一時期言われた“セカイ系”に近しいようにも感じられる。