夜の底で耳を澄ます

 メディアショップ「夜の底で耳を澄ます−佐々木中トークライブ」へ行く。


 HPから抜粋。
 「情報と暴力に溺れる世界を遙か踏破する白熱の語り下ろし『切りとれ、あの祈る手を』が発売されて約三ヶ月。
 "文学の勝利" を鮮やかに語り閉塞する思想状況を開け放つ敢然とした姿勢への反響は、思想界に留まらず 広がり続けています。
 さらにこの1月、初の小説『九夏前夜』を刊行した佐々木中が、関西で初のトークライヴを行います!」


 佐々木中 - Wikipedia


 トークの内容は、ざっくりまとめると、「極めて残念なことに、我々はアートを手放せないようにできており、自分自身が正気か狂気かも分からぬまま、ただ生き延びねばならない。万歳!」という感じ。ジェームズ・ブラウンを20世紀最大の芸術家と位置づけ、『千のプラトー』における“リトルネロ”(リフレイン)はファンクであると喝破するくだりが印象深い。


 考えを巡らしつつ、佐々木は話を進める。極めて演劇的というか、パフォーマティブな語り口。ヒップホップカルチャーにコミットした様、彼の生い立ちなども含め、思い描いていたものとは随分異なっていた。


 彼はトーク中に一度だけ“暴力”という言葉を使った。「テクネーを駆使して、我々は生き延びていく。願わくば暴力なしでテリトリーを、歌や踊りに安んじられる場を、確保したい…」というような感じだったと思う。
 が、果たしてそのようなことは原理的に可能なのか?
 音を鳴らすこと、建築をつくること、両者は結びついて、他のアートを訓練するための、すなわち子供を生み育てるための基礎的な場所、巣、ホームを用意する、と彼は言う。そのとき確保されるテリトリーは、必ず、他者を脅かさずにはいないのではないか。そこではいつも、テクネーのうちに含まれるであろう“暴力”が発露するのではないか。
 暴力なしのアートというものが原理的にあるとすれば、それはどのようなものなのか。
 と問いたかったが、考えがまとまらぬまま帰ってきてしまった。