都市論

 GALLERY M「なかもと真生/都市論」展へ行く。


 HPから抜粋。
 「なかもと真生は、シルバーの単色をペイントした大量の廃棄物を空間に配置することで、空間全体を表現の媒体としている。廃棄物に取り囲まれた空間は、近未来的なクールさを感じさせながらも、素材はゴミとなった電化製品や、解体現場から出た木くず、鉄くずなどであるというロジカルさが興味深い。1950年代に起ったジャンク・アートアッサンブラージュのごとくに、大量消費社会への洞察や批判を含みながらも、さらには人間の栄枯盛衰の様を露呈する表現であると感じる。なかもとは、瀬戸内のコンビナートを見て育ち、高度成長期以後のある種疲弊した時代の空気を感じ取ってきた世代だ。物が溢れ使い捨ての時代となり、物質至上主義となった現代社会をどのように切り取り、何を感じさせてくれるのか楽しみである。」


 なかもとは、2006年から、銀色に塗装した廃材を並べるというインスタレーションを展開している。最初の制作時から大規模なものであったが、今回も9m×7mという、ギャラリーの空間を埋め尽くすサイズのものだ。
 ただし、今回は初出時とは異なり、屋内に暗闇の空間を作り、LEDの点光源のみを配するというように変更が加えられている。さらに、スピーカーを仕込み低音のノイズを流すとともに、高い位置から俯瞰できるよう足場も設けられている。


 なかもとは、あるとき人から、作品が都市のように見える、という指摘を受け、初めてそのことに思い至ったという。事実、今回の展示は、夜の広大な未来都市を思わせる。(雪夜に人気のない街を一人で歩くような、シンとしたものを感じさせる。)当初思い至らなかった着想を、自身の来歴に照らして手繰り寄せ、展覧会のテーマに据えるまでになる、その彼の粘り強い思考が興味深い。
 と、同時に、彼はその“都市のように見える”ということに、用心深く懐疑の目も向ける。これらは都市のように見えはするが、しかし、ただの廃棄物の配列である、と。
 その両義性は、暗闇の中、白い光源に照らされて浮かび上がるオブジェを見ていると、物理的にも実感される。すなわち、奥の方にある物は、完全にシルエットと化し建築物のように見えるのだが、前方にある物は、闇を透かして廃棄物としてのディテールが確認できるのだ。ここでは、全く同時に二つの認識が並立しているが、世界をそのように両にらみし得る機会は貴重なものであろう。


 今回のなかもとの作品は、否応なしに榎忠の「RPM-1200」を想起させる。なかもと自身、そのことに自覚的であるが、彼はここで、榎忠の作品が垂直方向へ上昇するものであるのに対し、自身の作品が水平方向への拡がりを重視するものであることを指摘する。二人はともに瀬戸内沿岸の重工業地帯で育っているが、高度成長期に育った榎忠と、高度成長期の後に育ったなかもととでは、土地から受ける印象が大きく違ったのは想像に難くない。些か短絡的ではあるが、そのような印象の違いが、垂直と水平という両者の指向性の違いに現れていると言えるかも知れない。
 現代美術の作品を評価するとき、先行する美術史の中でどのように位置づけられるか、というのは、しばしばあり得る問いである。その点で、なかもとは榎忠という得難い参照点を見出している。両者の違いを対照することは、なかもとの「都市論」をより洗練されたものにするであろう。


 http://gallery-m.cool.ne.jp/