ユーラシアからヤポネシアへ:参考情報

2月24日(金)、キュレーター/映画監督の渡辺真也さんを京都にお迎えし、トークイベントを開催します。
テーマは「ユーラシアからヤポネシアへ−奄美で出会った黒潮文化」。
2013年にユーラシア大陸を横断し、その成果を映画作品としてまとめられた渡辺さんが、次は南に目を転じ、次回作に向けたリサーチを行われているとのこと。
ホストとしての最低限の予習として、各要素について簡単に調べてみました。(主な出典はWikipediaで、一部私の考えも交えています…。)



ヤポネシアについて>
ヤポネシア」とは、作家の島尾敏雄が1961年頃に考案した造語です。
日本列島を「島々の連なり」として捉えるものですが、学術的に裏打ちされたものというよりは、島尾の文学的直観による概念です。
しばしばポストコロニアル批評やカルチュラル・スタディーズの文脈で紹介され、「琉球弧」や「東北」等の概念とともに、ナショナルな求心性を裏返す道具立てとして用いられるように思います。



島尾敏雄について>
ヤポネシア」という語を考案した島尾敏雄は、1917年生れ、1986年没。(2017年は島尾の生誕100年ということになります。)
第二次大戦中、特攻隊隊長として奄美に赴任しましたが、待機のまま終戦を迎えました。
1955年に奄美大島に移住し、『死の棘』や『硝子障子のシルエット』等を執筆。一般には「第二次戦後派」又は「第三の新人」と分類されます。
『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』、『島にて』など、南島論も広く展開。
『死の棘』に描かれる妻・島尾ミホも作家ですが、彼女は奄美加計呂麻島の島長で祭事を司る「ノロ」の家系に生まれ、巫女後継者と目されていました。



黒潮について>
黒潮は、日本近海を流れる代表的な暖流です。
北赤道海流に起源を持ち、これがフィリピン諸島の東で強まり、その後、台湾と石垣島の間を抜けます。さらに、東シナ海の陸棚斜面上を流れ、九州の南西で方向を東に転じ、大隅諸島トカラ列島の間(トカラ海峡)を通って日本南岸に流れ込みます。
日本では古くからその特徴を表した多くの地方名がありました。西日本沿岸では真潮、宮崎で日の本潮、伊豆七島で落潮、三陸地方で北沖潮等の呼称が存在します。
世界的に見ると、ドイツの地理学者ベルンハルドゥス・ヴァレニウスの1650年の著作『一般地理学』の中で言及があります。(ちなみにヴァレニウスは当時28歳。同書を書き上げた直後に夭折しましたが、同書はニュートンの目に留まり1672年に出版されて大きな反響を呼びました。)



黒潮文化について>
黒潮は、周囲の気候・植生にも大きな影響を与えました。
海上交通に諸々の意義を持つことは言うまでもなく、南方から、動植物や人間、そして文化を運び続けました。
沿岸の地域では地名や方言が似通った地域が多くあり、これらの地域に共通する文化が「黒潮文化」としてグルーピングされています。(例えば、千葉の白浜・野島崎と南紀の白浜・御坊市野島、あるいは千葉県館山市の布良(めら)、南伊豆町の妻良(めら)、田辺市の目良(めら)等が同じような地名として指摘できます。)
こうした黒潮文化の諸相は、柳田国男が『海上の道』において語り、司馬遼太郎も注目しました。
また、黒潮文化的な想像力は、島崎藤村の詞による『椰子の実』など、様々な創作物にも反映されています。
なお、日本人の祖先の一部が、南方から黒潮を利用して日本列島に到達したとの説があります(南方起源説)が、日本民族における南方系の遺伝子の比率は低いというのが現時点での一般的な見解だそうです。



<ユーラシアについて>
「ユーラシア(Eur-Asia)」とは、ヨーゼフ・ボイスナム・ジュン・パイクによる「ヨーロッパ(Europe)と アジア(Asia)は異なる二つの文化ではなく、一つの大陸文化ユーラシア(Eurasia)である」という構想です。
1963年から、2人の生涯を通じて、作品シリーズが展開されました。(日本では、ワタリウム美術館がナム・ジュ ン・パイクの《ユーラシアン・ウェイ》(1993)を所蔵しています。)
キリスト教世界とその東方に位置する世界を、また、第二次世界大戦イデオロギーによって分裂した「西」と「東」を、一つの「ユーラシア」として融合させようという試みだったと言えます。
渡辺さんは、ボイスとパイクが構想した「ユーラシア(Eur-Asia)」を実証すべく、2013年、ドイツから日本へと陸路で横断しながらリサーチを行い、ヨーロッパとアジアの文化的連続性を探りました。
その成果は映画『Soul Odyssey - ユーラシアを探して』にまとめられました。(同作は、文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品に選定され、インドネシア世界人権映画祭で、国際優秀賞とストーリー賞を受賞しました。)