gadget展

 京都芸術センターで「gadget展」を観る。


 開催日:2008/12/14〜12/26
 企画者:林田新、中西園子
 出展者:芳木麻里絵、今村遼佑、中村裕太、西園淳


 「ガジェット」という言葉は、あまり一般的ではないかも知れない。ガジェットはもともとは、比較的小さな装置や機械、またそれらを構成する部品も含めたところの総称であった。僕の感覚では、[[現在ではもう少し狭く、携帯電話やPDAなどの小型電子機器を、主に指すのではないかと思う。
 僕は携帯電話メーカーにいたので、当然その言葉に触れる機会があり、その意味でも、興味深い展示であった。


 たとえば、携帯電話を考えるときに、いくつかの切り口が考えられる。社会的コミュニケーションのシステムとして、電話とカメラとテレビを飲み込んだ電子機器として、あるいは「もう一人の自分」と]]して。(携帯電話は、衣服の次に、最も長く、最も身近にあり続けるモノである。)
 携帯電話を、印籠文化の延長として捉えることもできる。印籠はもともとは薬入れとして持ち運ぶものであったが、凝った蒔絵や根付によってデコレーションされ、本来の機能を逸脱していった。携帯電話を「印籠を掌中でもてあそぶ美意識」の延長に置くならば、日本における携帯電話のガラパゴス的な発展が理解できるような気もする。


 「掌中の美」というのは、日本における一つの特徴なのではないかと思う。それは大変アンビバレントな性質のものである。対象の距離は非常に近く、眺め入れば、他事を忘れて没入してしまう。しかしながら、そこに辿り着くことはできない。近づけど近づけど、なお触れることはできない。ちょうど孫悟空が遠大な距離を飛行してもなお、釈迦の手の平から逃れられなかったように、そこには無限の距離がある。最上級のフェティシズムである。
 このことは、松岡正剛が次のように表現している。「触れるなかれ、なお近寄れ」と。体温と肌の湿気を感じるほどに近付くが、しかし触ることはしない。にじりより、主体(視覚)と客体(身体)がない交ぜになる、そのような局面のエロス。


 周知のように、距離は、政治の問題である。そうであるなら、一瞬のうちに、掌中に無限大の距離を乗せてしまった日本は、特異点としての政治状況を生きていることになる。
 時間が一定のとき、距離を無限大にすることは、速度が無限大になることである。高速の日本。ハイウェイスターとしての日本。もし、日本において、携帯電話や美術が特異なもの、世界市場の常識から零れ落ちたものであるとするならば、この高速性、「掌中の美」に遠因が見られるのではないか。


 「掌中の美」ないしは「高速の日本」は、ガジェットの一側面において、折に触れて顔を見せることになるだろう。「gadget展」に出品された作品は、様々なガジェット性を有している。しかし、少なくとも、僕がそれらに見入っていたとき、僕は孫悟空のように無限の距離を飛んでいたのだ。