メガハウス

 京都造形芸術大学メガハウス−都市を使い切るために」展を観る。


 「メガハウス」は、阿部仁史+本江正茂による、新たな都市生活のあり方を提案するプロジェクト。都市全体に散在する空室をメガハウス社が借り上げ、「Zap Door」というシステムにより集中管理する。(Zap Doorには、生体認証用のカメラ、ディスプレイ等が備えられており、ネットワークで本社のシステムと接続されている。)既存の空室のドアをZap Doorに交換するだけで、その部屋はメガハウスの一部となる。ユーザーは好みの部屋をネットワーク上から予約、自由に使用し、まるでそれが一つの住居であるかのように都市の中を渡り歩き、生活する。


 プロジェクトは、システムを利用するユーザー側からと、システムを提供するオーナー・管理者側からとで、それぞれに興味深い論点を浮かび上がらせる。


 ユーザー側から見たとき、これは、一つの生活様式の提案として見える。
 安部+本江の提案は、一見、遊牧民ノマド)としての在り方(固定的な役割を拒み、求心的な権力から逃れようとする在り方)を唱道するもののように思えるが、全体として一つの住居を目指している点で、ノマディズムとはニュアンスが異なる。メガハウスにおいては、権力的・統一的なシステム管理者が想定されている。また、ユーザーには都市の中を渡り歩くことが期待されるが、ユーザーが必ずしもそれを選好するとは限らない。この点で、メガハウスは、意想外に安定的・求心的なシステムにとどまる可能性がある。
 とは言え、プロジェクトが遊牧的な要素を含みつつも、「家」を目指すことは、一概に悪いことではない。漫画喫茶を泊まり歩く派遣労働者が徐々に疲弊していくように、システムの絶え間ない遷移(と遷移への予期)は、多くの弊害を生み出すだろう。


 一方、オーナー・管理者側から見たとき、メガハウスは、経済・都市のシステムの更新として見える。
 都市を使い切るという言い方は、コンピュータのデフラグメントを想起させる。細分化され効率よく利活用できないリソースを、ある種のシステムを通すことで、うまく使いまわす、というニュアンスがそこにはある。しかし「メガハウス」で起きていることは、“デフラグメント”を包摂しつつも、それ以上の何かであろう。それは、都市を使い切る、というよりも、都市を超える、という在り方に近い。
 使われていない都市空間をどのように使うか。それはプラクティカルな問題ではあろうが、使われていない空間にたまさか出会うことに魅力を感じる僕にとっては、そのような問いの立て方には魅力を感じない。「家の持つ諸機能が都市の中に遍在し、家が都市へと拡張されるとき、それでは、都市はどのようになるのか。メガハウスを考えることは、実は、都市という枠組み自体を切り崩すことになるのではないか。」そのように問う方が、メガハウスは面白いと思う。
 膨張する家が都市の隔壁を圧し、やがてそこに亀裂を生む、というアイデア。それは、再びコンピュータのたとえに落とし込むなら、ネットワーク・コンピューティング(NC)として考えられるであろう。デフラグメントとNCは、リソースを効率よく運用するという思考において一致する。しかし、両者は、未だ見ぬリソースに開かれているか否かにより、峻別される。NCにおいては、全体として一つの組織でありながら、次々とシステムに未知の能力が付加され、その輪郭を更新し続ける。
 さらに言うならば、NCは、ユースホステルの本棚に似ている。理想的なユースホステルの本棚を想像するとき、そこでは世界中の若い旅行者が集合離散し、読み終わった本を置いていく。ある者は、そこに置かれたものを持ち出し、並び替え、ときにコメントを加え、際限なく編集が続けられる。全く異質の言葉で編まれた詩集の横に、魔術の歴史と、都市工学と、アジアの有名なマンガが置かれる。本棚は未知の世界に開かれており、絶え間なく流動するが、全体として一つのシステムである。旅行者は自発的にそこに参加し、また一方で、それを無視する自由を与えられている。メガハウスを都市に散らばった巨大な本棚と読み換えるとき、すなわち都市を図書館と読み換えるとき、プロジェクトはより違った光彩を放って見えるであろう。


 本江は、このプロジェクトについて「人々の空間への欲望あるいは想像力はもっと大きくすることができるはずで、それを阻害しているものが都市の空間的資源を利用する権利がうまく分配されていないことであるなら、そこに新しい回路をつくって流動性を高めればよいのではないか」と書いている。メガハウスは、確かにそのような思考を促す。しかし、それを、欲望の駆動、資源の効率的配置という点から考えるだけでは、いささか不足ではないかと思う。それは、いずれ権力的な重苦しさに陥り、新たな権利の分配の欲求を生むことになる。このことは、安部+本江の指摘する、アマゾン的な「ぞっとする」提案として、ユーザーの前に姿を現すだろう。
 「都市」と「家」を等しく見る、そのような想像力を、常に開かれた地点で考えること、静かで明るい「家」の中で、なお、「都市」を感じること。そのような「ユースホステルの本棚」としてメガハウスは考え始められるべきではないかと思う。


 http://www.kyoto-art.ac.jp/raku/2009/20090930/index.html