異形の王権

 網野善彦『異形の王権』読了。


 婆娑羅の風を巻き起こしつつ、聖と賤のはざまに跳梁する「異類異形」、社会と人間の奥底にひそむ力をも最大限に動員しようとする後醍醐の王朝、南北朝期=大転換のさなかに噴出する<異形>の意味と力を探る。


 面白いのが読む前から分かる。たまにそういう書物がある。
 それは、その文書の来歴評判と、読み手の知識、気分、時々の関心が整合することで達せられるのであろうと思う。が、体感的には、それはほとんど自明の、手に触れられる程の確実さとして、ただ、「分かる」というあり方で感じられる。
 何故だか分からないが、この本は面白いに違いない、と分かる。
 『異形の…』もその類の書物であった。いくつもの考えが閃き、ページを繰りながら夢を見る。


 言及すべき点は無数にあるが、ここでは童のことを紹介する。
 網野は、六波羅の禿、京童の悪口など、通常の機制を超えて何事かを指し示す、特権的な子どもの姿を指摘する。童は、現在の、大人/小児、という枠組みとは異なる、聖なる者としての小さき人であったのだ、と。
 そこから、童形、童名のものたちの呪性、聖性が読み解かれる。鳥獣を制御する職種(牛飼や猿回し等)が童形であったこと。オニの多くが、その恐ろしい姿態にも関らず童名を持つこと。これらは、童の<異形>としての力を除いては考えられない。


 ついでに、僕が行間で見た夢のことを。
 本書では、杖、飛礫(つぶて)の意味についても触れられる。それらはいずれも人外のものとして聖性を帯びていた。
 たとえば、老人、盲人、琵琶法師、旅人、乞食、僧侶の突く杖は、境を越えようとする者どもの呪具であっただろう。それはオニの金棒や、武蔵坊弁慶の伝説に連なる。
 また、飛礫は、子どもの遊び、祭礼、一揆において見ることができた。あるいは、弱者に投げられる石、虚空からの天狗飛礫も射程に入る、と著者は言う。これらは、岡引や忍者がどこからやってきたのかを考えるよい材料になるだろう。
 そして、杖と飛礫といえば、それは現代ではベースボールである。どのようにして正岡子規が野球を愛したのか。何故、日本人が、王のホームランに興奮したのか。それは、この人類史のはじめに置かれていた二つのアイテムを措いては考えられないのではないだろうか。
 

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

異形の王権 (平凡社ライブラリー)