アメリカまで

 遠藤水城アメリカまで』読了。


 キュレーター・遠藤水城によるインタビュー集。
 アメリ渡航を控える二〇〇七年初頭、それまで放置してきたアメリカと対峙すべく、長谷川祐子田中功起ら六人に行ったインタビューを収録。


 収録されているものの中では、長谷川祐子の発言が圧巻である。彼女の姿勢は、シンプルで正当なゆえに、非常に厳しい。そのようなシンプルさや正当性が日本ではほとんど見られないということの証左として、彼女の厳しさは浮かび上がるのだろうと思う。
 遠藤が述べている通り、長谷川のスタイルは、感動的ですらある。


 一方、熊谷伊佐子へのインタビューでは、遠藤は苛立っているように見える。
 作品の評価には、経験値で積み重ねられた価値基準によるものがある。たとえば、学芸員が地元の作家を何年にも渡って見続ける中で、ああこれはいいね、と総体的な評価を下し、作品を取り上げる、とか。これに対し、彼は、無数の基準のうちでどれが問題になっているのか、何故その作品を今ここで取り上げる必要があるのか、と突き詰める。
 遠藤は、インディペンデントであるということを強く意識している。全く基盤がない、収入源もない、会場も自分で探すという状況で、彼は、自分の活動の意味を示し、価値を作り出していく必要がある。その中では、価値の基準に極めて鋭敏になっておく必要があるだろう。
 熊谷の、そんなにちゃんと考えているわけではない、という発言を前に、遠藤は、ああと息を吐いている様に思える。


 遠藤は、インディペンデントな者の拠り所は、「歴史」でしかない、と言う。これはわりと重い発言である。そこからは、ヘーゲル歴史観の問題も、デカルトヴィーコの対立も、あるいはガダマーの解釈学も、俎上に上るであろう。しかも、これらの問題系に“インディペンデントな者”という光を当てるならどうなるであろう。


 また、僕は、彼が“インディペンデントな者”を持ち出してきた来歴に興味がある。それは現実的諸条件である以前に、一つのスタイルの選択という問題であろう。だからこそ、遠藤は長谷川の発言に共感し、感動するのである。