シンポジウム

 京都国立近代美術館で国際シンポジウムに参加。


 開催中の「Trouble in Paradise/生存のエシックス」展に関連してのもので、「Creative Engagement/生存のエシックス」と題され、会期の序盤と終盤に分けて開催される。
 今日は、「Part1:生命・環境・芸術」編。


 京都国立近代美術館の展示は、しばしば、わりとハードなものであったと思う。極めてハイコンテクスチュアルな作品にも、ほとんど注釈を加えない。鑑賞者には、事前事後に、図録のテキスト(場合によっては、全く別のソース)を通じて、その意味を探ることが要求されている。
 「生存のエシックス」展も同様にハードなものであったと思う。予備知識なしに、一人で観に行く方は、多くの場合、十分には楽しめないのではないかと思う。
 さらに言うと、今回の企画は、チラシ等の文言においても、すぐには了解しかねるところがある。以下は本シンポジウムについてのリード文だが、「瞑想」や「水資源」のあたりに異物感を感じないだろうか。


 “「Commons:共有」と「Conflict:対立」、「Mediation:媒介」と「Meditation:瞑想」をキーワードに複数の共同体が持続してゆく為の基盤としての芸術の可能性を探ります。さらに、生命の多様性と生存に関わる水資源、バイオテクノロジーとグローバル資本など現代のアクチャルな問題へとアプローチしてゆきます。”


 これは、シンポジウムを経た後には、一定、理解され得ると思うのだが、多分、これだけを読んでも不明瞭であろう。
 この分かりにくさは、抑制的なプレゼンテーションのせいもあるのだろうが、それ以上に、やろうとしていることの困難さに由来すると思う。アートの文脈を、全く異なる領域に持ち込むこと。あるいはその逆。それは、時として、“文字化け”を引き起こす。


 以上を踏まえた上で、僕は、本展を高く評価したいと思う。とても面白い。
 とりあえずクリティカル・アート・アンサンブル(CAE)のプロジェクト、「遺伝子組み換え劇場」に言及しておきたい。


 CAEは、ウェブ、映像・写真、テキスト、パフォーマンス等を駆使する、メディア・アクティビスト集団。1987年にスティーブ・カーツが創設し、美術、科学技術、政治的アクティビズムの交差するところを探求している。今回の展示は、CAEの問題意識の一つである、バイオテクノロジーを扱ったもの。
 シンポジウムの中で、カーツは次のように言う。
 「現在、テクノロジーにおいて、二つの革命が起きている。一つは、IT。これは、インターネット等の形で、広く一般に浸透していると言えるだろう。もう一つは、バイオテクノロジー。これは、残念ながら、一部の専門家、企業、国家に独占されている。今のところ、普通の家庭には、PCはあってもラボはない。ある大企業が、遺伝子操作された特定の作物の品種を、市場の支配的な品種にしたとする。(それは既に実際に起こっている。)これは大きな問題ではないだろうか?」
 「バイオテクノロジーについて、一般の人々の間には、二つの考え方がある。一つは、テクノロジーが全てを解決してくれるという、ユートピア的なもの。そしてこちらの方がより好ましくないのだが、もう一つは、マッドサイエンティストが恐ろしいことをしようとしているという、SF的なもの。もちろん両者とも事実とは異なる。」
 「二つの誤った考えを否定し、バイオテクノロジーを公共空間へもたらすことが必要ではないか。」
 カーツは、以上の考えを広めるために、自前で解析キットを揃え、農作物の遺伝子を分析することを始めたという。もちろん彼は素人である。が、やってみると、それは難しいことではなかったという。
 彼は公共の場(美術館や市役所など)にキットを持ち込み、観客と対面しながら、その場でじゃがいもの遺伝子を調べてみせるというパフォーマンスを行った。程なく、カーツは、国家安全保障局によって、キットを没収され、逮捕されたという。一連の活動を通じて、弁護士、警察、政府等々、ほとんどの権力的な人々に会うことができた、と彼は笑う。ITは今でもなお軍事的なものであるが、バイオテクノロジーはそれ以上にシリアスなものであるということを、彼らの活動は明らかにしている。


 CAEの活動は、政治的で、批評的であると同時に、我々の身近な生活にも直結している。美しいビジュアル・デザイン、ユーモアのセンスも含め、hanareは、彼らに学ぶところが大いにあるだろうと思う。