PAINTING IN QUESTION

 galerie 16 「PAINTING IN QUESTION 展」へ行く。


 京都造形芸大の学生、元学生による絵画展。
 出展は、極並佑、桜井類、神馬啓佑、田中幹、寺村利規、鷲崎公彦。


 本日は、出展作家に造形大大学院長・浅田彰を交えてのトークが行われる。


 以下、フライヤーから抜粋。
「今絵画にとって何が問題か、どういった問題から絵画を考えるべきか、まずそこから考えたくて「Painting in Question」というタイトルをつけました。
「問題」というとき、絵画の存在に関わるような大問題が横たわっているのではなくて、きっと、何か問題を見つける・作ることで動機を得、絵を描くことを続けてゆくのだと思います。
絵画が生き続けるには、絵を描かない人に価値を認めてもらえばいいのだと思いますが、そもそも絵画の価値とは何でしょうか。
絵画はべつに死んだり古くなったりしていないかもしれない(しているかもしれない)、要はある一枚の絵画(とその全体)の魅力的であればいいと言うことだと思います、けれどもなにが魅力かというところで意見が分かれます。
だから対話をする場を作りたい、価値観のぶつかり合うその場からよりよい絵画を生むことができるのではないでしょうか。
つまり絵画にとって、問題があるほうが良い環境だということ。
今回は僕ら6人で「Painting in Question」を行います。」


 トークの中でも言及されたとおり、本展では、作品の志向にかなりバラつきがある。展覧会としては一見まとまりがなく、個々の絵画より、“絵画そのもの”が問題になっているように見える。そこでは個別の作品は(参照項としてもちろん重要ではあるが)背景に退き、言説が浮上してくる。


 一般に、物事の価値は、言説により定まる。言説のないところには価値は生まれない。
 浅田が指摘するとおり、“個人の心象風景”としての絵画は、ほとんど社会的な価値を持たない。心象風景は、制作の契機として必要ではあるだろうが、それが対話を生み批評を呼ばない限り、一般には無価値である。
 田中は「大学を出ると途端に作品について議論する場がなくなる」と言う。寺村は「反体制でありたいが、そもそも体制がない。ひっくり返す卓袱台から自分たちで作る必要がある」と指摘する。京都(ないしは日本)に、如何に言説が不足しているかの証左であろう。
 その点、このように真っ当な議論を経て生み出される展覧会は貴重である。ただし、何がどのように語られたのか、がプレゼンテーションされなければ、それはやはり“個人の心象風景”でしかないのではないだろうか。(制作者にこのようなことを求めるのは些か酷かも知れないが。)
 作家たちは、枠組はともかく、このような対話と、対話を経ての展覧会を、今後も継続したいと話す。個人的には、是非、その過程を公開・記録し、流通させてほしいと思う。


 余談。
 浅田さんは、少なくとも僕がお見かけするときは、必ず水玉の靴下を履いている。
 そして、作家たちに丁寧にコメントする彼は、とても“先生”っぽかった。