風穴

 国立国際美術館「風穴」展へ行く。


 サブタイトルには「もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」とある。


 コンセプチュアリズムは、作品の物質的、形態的な側面より、作者の思考や意図など観念的な側面を重視した一群の作家を指す。究極的には概念(すなわち言葉)だけで成立する作品群と言えるかもしれない。ジョセフ・コスースに代表され、マルセル・デュシャン河原温ヨーゼフ・ボイスフルクサスらがその射程に含まれる。
 というのが、ざっくりとしたコンセプチュアリズムの理解であろう。


 しかし、出品作は、このような美術史学上のコンセプチュアリズムに収まるものでは全くない。場合によっては、そこに接続されるかどうかも疑わしい。
 普通の展覧会なら、既存のコンセプチュアリズムを参照しながら、「もうひとつの」それが輪郭づけられるのであろうが、本展では、意図的にそのような定義付けが放棄されている(「コンセプチュアリズムとは何かという問いにひとつの答えを出すことが展覧会の目的ではなく…」)。ここは議論を呼ぶところであろう。


 現代美術は、多かれ少なかれ、作家が意識的であるかどうかにかかわらず、コンセプトを内在している。と言うかそのように読み解かれずにはいられない。そのような作品群のグラデーションを前にして「もうひとつのコンセプチュアリズム」と言うときには、僕は、やはり、その濃淡の中に線を引くことが必要なのではないかと思う。それは必ずしも明確な定義付けではないかも知れないが、にしても、本展で、この作品のラインナップで、「コンセプチュアリズム」が召還された理由を、僕は得心することができない。


 「アジア」という枠組みについても概ね同じことが言えるだろう。何故、アジアなのか。アジアと言うときに、何故、このラインナップなのか。アジアとコンセプチュアリズムはどういう関係なのか。(もうひとつの、という言葉に、「アジア」を続けることは、あまりに安易ではないか。)
 それらに十全な回答は用意されていない。


 別に「風穴」だけでいいじゃん。


 本展の最大の問題点は、風穴を「無理やりこじ開けようとしているように見える」というところではないかと思う。既に空いている穴をもう一度通ってみる、という、柔軟で素朴なステイトメントに反するように、本展では、企画のゴチゴチとした感じが先に立ってしまっているのではないか。


 とは言え、念のために書いておくと、出品作や展覧会としてのクオリティが低いわけでは決してない。
 印刷物の一つ一つが極めて挑発的であり、企画者の気概を感じさせる。プレイを豊富な資料をもって取り上げることは極めて意義深いと思うし、立花文穂も期待していた以上の充実した展示であった。
 上記の感想は、そのような評価のベースの上でのものと考えていただきたい。


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