絶滅危惧・風景

 大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室「絶滅危惧・風景」展へ行く。


 いつも思うのだが、この施設での展示は、なかなかハードルが高い。
 周辺の巨大な彫像、展示室に至るまでのキッチュな店舗群、バブル期を彷彿させる諸々の意匠等々が、独特の濃厚な雰囲気を醸している。何より、「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」という施設名称自体が、もう突っ込まずにはいられない。(何年、(仮称)がついてんねん!ほんで長いわ!)
 このシークエンスに負けない展示は、一つには、場の文脈を一切無視した断絶し切ったものとして立ち上がるだろう。それはモディリアーニブランクーシ、リヒターなど、世界中で愛される(という意味で「日本」とは隔たった)作品群の展示かも知れない。
 もう一つは、こちらはより難しいものであろうが、この日本・大阪のコンテキストと、がっぷり四つに組んで捩じ伏せるような展示であろう。


 本展は、大阪市の文化事業としてスタートしたBreaker Projectを基に、新世界・西成周辺にて展開されている一連のアートプロジェクトを紹介したものだ。「都市の中心部にありながら昔ながらの町並みや人情、昭和のたたずまいが残るまち。その失われつつあるまちの風景に介入、作品化するプロジェクト」とのこと。


 この展示の最もクリティカルなところは、ここで取り上げられるのが「絶滅」しかかっている「風景」だ、という点だ。うっかりスルーしそうになるが、風景が絶滅する、とは果たしてどういうことなのか、考え始めると難しいものがある。
 ここで映/写されているイメージは、数年後には、この世から消えてなくなるかも知れない、という絶望的な認識が、この展示の最初にはある。そしてそれは、単一のイメージなのではなく、複合的で連続した「風景」なのだ。
 このことは極めて恐ろしいことであるはずなのだ。


 各紙の東北大震災報道を見ていると、イメージの消失について、幾つかの似通った物語が目に留まる。それは、たとえば、「数年前に亡くなった最愛の妻の、その写真すら無くなったのだ」というように表現される。複合的で連続したイメージの暴力的な消失。それは、家財道具一式の滅失以上のもとして、あるいはそれらを象徴するものとして言及される。
 風景が絶滅するというのはそういうことだ。


 本展で展示される作品は、悲壮感に満ちたものでは全くない。むしろ、ユーモアや、おかしさに満ちたものであり、極めてバイタルなものである。そしてこのプロジェクトは、そのような楽しい風景を維持・活性化することをも目的としていると考えられる。(もちろんそれはアートと社会との双方向的な営みであり、どちらかがどちらかに一方的に奉仕するようなものではない。)
 繰り返して強調したいのは、しかし、そのような意図に先立つのは、風景の絶滅への、恐ろしい想像なのだ、ということだ。


 僕は、個々の作品の成否とは別に、このような想像力の発露こそが、日本・大阪の文脈に向き合うということであろうと思う。


 BreakerProject.net - ブレーカープロジェクト