明かしえぬ共同体

 モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』読了。


 共産主義を鼓舞しながら、その裏切りや挫折のうちに潰えていったものは何だったのか?今世紀を貫く政治的文学的体験における「共同体」をめぐる思考を根底から問い直し、「共に存在する」ことの裸形の相に肉薄する。それは一切の社会的関係の外でこそ生きられる出来事であり、そこで分かち合われるのは逆説的にも複数の生の「絶対的分離」である。ハイデガーの「共存在」を換骨奪胎し、バタイユの共同体の試みやデュラスの愛の作品、そして「68年5月」の意味を問いながら、「共同体の企て」やその政治化の厄々しい倒錯を照らし出し、「共同体」を開放系へと転じる20世紀のオルフェウスブランショの思想的遺言ともいうべき書。


 極めて面白い。「共感」や「共同」ということについて考えるならば、どこかで行き着くべき書物であろう。


 本を読むときに、最もテンションが上がるのは、「よく分からぬが、ここに自分の求めているものが書いてある」という直観が得られる瞬間だ。僕はこのテキストの最初の数ページでそのような感覚を覚えた。あとはもう、読むだけである。


 共感は、原理的には不可能である。
 それは、「私とあなたの中間に浮かぶあの浮島で、一時的に逢いましょう」という幻想的な物語の中でのみ、ようよう達せられる。それは別の言い方で言うならば、あなたのいた痕跡に触れるということである。ヴォイドとしての部屋に、ただ揺れるカーテンに、あなたの不在を想う。
 それは死者に逢うことと同じである。


 死者に逢うためには、実は、私も死ななければならない。そして「逢ってきた」と言うためには、また、生き返らねばならない。永遠に体感することのできないはずの「自身の死」を、例外的に経験すること。黄泉への往還、仮死、そのような事態を通じなければ、我々は共感を信じることができない。
 ジュリエットが自らを殺すのは、ほかでもない、そのためなのである。
 そしてもう一度書くが、それは、共感は、原理的には不可能である。


 ブランショは、共同することの不可能性を言う。そして、その一事においてのみ我々は共同体である、と書く。名状され得ぬ、明示することのできない共同体。
 おそらく、共感の原理的不可能性は、そのような共同体において、ようやく承認される。
 

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)